先回は、井口昭英氏が発表された「坂東八平氏の祖 村岡五郎 平良文について」という論稿に則りながら、氏が推測された村岡五郎(=平良文)の居住地の変遷について、大筋は
1常州時代(青年期)
○下総国結城郡村岡(現茨城県下妻市)
2武州時代(青・壮年期)
○武蔵国秩父郡山田(現埼玉県秩父市)
↓
○武蔵国大里郡村岡(現埼玉県熊谷市)?
3相州時代(成年期)
○相模国大住郡田村(現神奈川県平塚市)
4総州時代(晩年期)
○下総国香取郡阿玉台(現千葉県香取市)
であったろう、という説(成年・壮年の捉え方が一般とは逆転していますが)を紹介したうえで、「良文に関する資料を博捜したうえで立論された井口氏に対して、筆者は反駁する力量を持ち合わせていません。しかし、次回は地名と苗字の関係から一、二再検討をしたいと思います」という文言で締め括りました。
大層な物言いで終わりましたが、筆者も当初の居住地が下総国結城郡の「村岡」(茨城県下妻市)であること、終焉の地が下総国香取郡阿玉台(千葉県香取市)であっただろう、ということについて異論はありません。
良文の兄、平国香が本拠を構えていたとされる常陸国真壁郡石田(現茨城県筑西市)と、良文当初の居住地下総国結城郡「村岡」との間は直線距離で十数キロですから、合点がいきます。また、終焉の地についても、神奈川県藤沢市
問題は良文が青年期から壮・成年期に居所としたという武蔵国秩父郡山田(現埼玉県秩父市)と相模国大住郡田村(現神奈川県平塚市)、および良文が開発したとする武蔵国大里郡村岡(現埼玉県熊谷市)です。
筆者が着目するのは、良文の子、忠頼(「経明」とするものもあります)です。「尊卑分脉」によれば、忠頼は「村岡次郎」を称したといいます。つまり、村岡五郎良文と村岡次郎忠頼父子は親子二代にわたって「村岡」に住したと考えるのが普通で、忠頼が成長した後に、良文は香取郡阿玉台に隠居したのではないか、と筆者は考えます。
ところで、「続左丞抄」に引く寛和3年(987)正月24日付の太政官苻には「陸奥介平忠頼、忠光等、移住武蔵国引率伴類」とあります。このことについて、ジャパンナレッジ「国史大辞典」の【平忠頼】の項は次のように記します。
平安時代中期の地方軍事貴族(中略)寛和元年ごろ、常陸国の平繁盛が金泥で書写した『大般若経』六百巻を延暦寺に奉納しようとしたところ、繁盛を「旧敵」とする忠頼は弟の忠光とともに武蔵国に移住し、これを妨害しようとした。繁盛はこれを朝廷に訴え、忠頼追捕の官符が下された。しかし、忠頼は中央の有力者と私的関係をもっていたらしく、この官符の撤回に成功している。……
「忠頼は弟の忠光とともに武蔵国に移住」とありますから、「村岡次郎忠頼」は武蔵国以外に住んでいたことになります。これが、忠頼の父良文が「武蔵国秩父郡山田」に居所を構えていたとする説のひとつの弱点だと思います。
また、忠頼は繁盛を「旧敵」としています。繁盛は、平将門の乱で兄貞盛や藤原秀郷らとともに、父平国香の仇である将門を討って戦功をあげていますから、忠頼の父良文は、将門に与していたのかもしれません。
永暦2年(1161)2月27日の下総権介平常胤解案(櫟木文書)などによれば、下総国相馬御厨(相馬郡)は平良文-経明(忠頼)-忠経(忠常)-経政(常将)-経長(常長)-経兼(常兼)-常重と相伝した所領といいます。先回、良文の下総国阿玉台への移住について、井口氏は「甥である平将門の遺領を継ぐかたちでの移住」だったと推定している、と記しましたが、平将門の威力は下総国相馬地方にも浸透していたとも考えられますから、あるいは良文が相馬御厨を得たのは、将門の乱と何らかの関連があるのかもしれません。
ところで、良文と「相模国鎌倉郡村岡郷」の関連については、肯定もできないが否定する決定的な要素もない、というのが筆者の考え方です。一方で「武蔵国大里郡村岡」については、かなり否定的な捕らえ方をしてきました。しかし、「今昔物語集」に載る源
源充と平良文は互いに武勇を競っていたが、郎党たちの悪口などがもとで、二人の間は段々に険悪になる。ついに、双方が軍勢を引き連れての決戦ということになったが、真の勇猛さを競うには一騎討ちの勝負で、ということになった。充と良文は技の限りを尽くして戦ったものの決着は付かなかった。しかし、お互いの技芸を認め合った二人は、後に厚い友誼を結んだといいます。
源宛は武蔵国「
源宛(充)が本拠とした武蔵国「箕田」。村岡は目と鼻の先。
もうひとつ、井口氏も指摘していますが、前掲の相馬御厨を相伝した良文‐(略)‐常重-常胤の流れを汲む千葉氏が「妙見」を厚く信仰していたことは広く知られています。また、平良文-忠頼‐将恒‐武基と続く
ここまで筆者の気になったことなどを記してきましたが、やはり、井口氏の論考に反駁するというのは、「大層な物言い」だったようです。
しかし、これまでの検討のなかで、地方国衙に勢力を扶植した平国香から貞盛と続く流れは、これを梃子に中央(朝廷)とつながろうとする志向性が強くうかがえるのに対し、国香の弟、平良文‐忠頼(経明)と続く流れは、同じく地方国衙に勢力を扶植しながらも、そこから、中央とは反対の在地に根差す方向性が読み取れたのではないでしょうか。
「将門記」に平良文についての記載がみえないことについて、井口氏は、良文が鎮守府将軍として任地に赴いていた可能性を指摘しています。しかし、国衙中心機構とは一定の距離を置く良文の姿勢が、あるいは「不記載」という結果をもたらしたのかもしれません。
国香‐貞盛の流れから平清盛が誕生しますが、一方で、良文‐忠頼の一統からは坂東八平氏とよばれるような在地の武士が叢生します。在地に深く根を張った彼らは、やがて、清盛政権打倒を掲げる源頼朝の許に参集し、鎌倉幕府創生の原動力となりました。こうしてみますと、平良文こそが、その後に活躍する「中世武士」の先駆けだったのかもしれません。
(この稿終わり)