日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
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さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第29回 門前と門前町

2009年07月24日

先回の〈日本列島「地名」をゆく〉では、「○○代地」あるいは「××代地町」という形式の町名が江戸城下に特有である、ということを記しました。今回取り上げる「門前」という町名も、「○○寺門前」「××社門前」といった形式で、江戸に広くみられた町名です。ただし、江戸城下に限られた地名ではなく、ほかの城下でも町名として散見します。

門前町というと、信濃善光ぜんこう寺の長野、伊勢神宮の宇治うじ山田やまだ、讃岐金刀比羅ことひら宮の琴平ことひらなどがすぐに思い浮かびます。JK版「日本国語大辞典」の「門前町」の項は「中世末期以来、神社・寺院の門前に形成され、参拝人・遊覧客を対象とする宿屋や商業が発達して、それらを主たる生業とする町をいう。たとえば、善光寺のある長野市、新勝寺のある成田市など」と記しています。

しかし、「○○寺門前」「××社門前」といった形式の町名は、いわゆる一般的な門前町=寺社門前に形成された商業都市である長野や宇治・山田や琴平などとはいささか性質を異にしていました。そこで、江戸の典型的な「門前」の一つである駒込こまごめ吉祥寺きちじょうじ門前について、JK版「日本歴史地名大系」の記述をみてみましょう。

駒込吉祥寺門前

駒込吉祥寺門前

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「歴史地名」によれば、吉祥寺は明暦の大火後に旧地の神田かんだ台から駒込に移転、移転ののち(寺の境内に)町屋(町家)を建立することが許され、延享2年(1745)には、(町屋住人の)人別が(それまでの寺社奉行支配から)町奉行支配に替わったこと、神田台にあった頃の門前町屋の家数は16軒、移転後の文政10年(1827)の町屋の家数は31軒であったことなどがわかります。

つまり「駒込吉祥寺門前」という町は、吉祥寺の参詣人を相手とする宿屋や商店が集中することで形成された町ではなく、ごく一般的な江戸の町屋と同じような形態であるものの、町の成立した場所が、いわゆる町地(町奉行支配地)ではなく、寺社奉行が支配する寺社境内地であったということになります。

ちなみに、神田台にあった吉祥寺門前町屋の住人たちは、明暦の大火罹災後に五日市いつかいち街道沿いに移住、新田村を開いて吉祥寺新田きちじょうじしんでんと名付けました。これが現在の東京都武蔵野むさしの市吉祥寺地区の始まりといいます。

 

日光御成道(本郷通)に面して、参道の南北に形成された駒込吉祥寺門前

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ここで少しだけ寄り道をして、「門前」「門前町」町名が江戸以外にどのような広がりをみせるのか、JK版「日本歴史地名大系」で調べてみましょう。見出し検索(後方一致)で「門前」と入力すると366件、また、同条件で「門前町」と入力すると67件がヒット、それぞれを都道府県別にみると、次のグラフ表示となります。

門前のグラフ門前町のグラフ
「門前」のグラフ「門前町」のグラフ

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「門前」366件の内訳は東京都(江戸)が322件と突出しています。次いで石川県12件、京都府11件、愛知県9件と続きます。京都府の11件のうち、宮津みやづ市の「文殊門前もんじゅもんぜん」を除く10件は、現在の京都市街にあります。鞍馬寺くらまでら門前、南禅寺なんぜんじ門前、知恩院ちおんいん門前、建仁寺けんにんじ門前(項目見出しと中見出しの2箇所でヒット)、建仁寺新門前、清水寺きよみずでら門前、東福寺とうふくじ門前、泉涌寺せんにゅうじ門前、等持院とうじいん門前の10件で、これらの門前は、各寺院の「門前に形成され、参拝人・遊覧客を対象とする宿屋や商業が発達して、それらを主たる生業とする町」、いわゆる門前町です。

しかし東京都の322件のほとんど、および石川県の12件、愛知県の9件などは、それぞれ江戸城下・金沢城下・名古屋城下の各寺社境内地に成立した町屋にヒットしています。いっぽう、「門前町」67件の地域別内訳をみると、必ずしも江戸が突出しているわけではありません。また各町の性質を大雑把にみると、「一般的な門前町」と「寺社境内地に成立した町屋」が相半ばしています。

先回の〈地名をゆく〉で、延享2年(1745)の江戸の総町数は1687町と記述しました。そうしますと、江戸の町のうち約2割が寺社境内地に成立した町屋ということになります。しかし、この総町数の約2割を占めた「門前」町名も(「門前町」町名を含む)、深川ふかがわ永代えいたい寺の門前に形成された町屋であった門前仲町もんぜんなかちょう(江東区)を例外として、現在に継承されませんでした。先回取り上げた「○○代地」「××代地町」という形式の町名と同じような運命をたどったことになります。

ところで、江戸時代、江戸市中では三田みたしば麻布あざぶ高輪たかなわ(現港区)、四谷よつや市谷いちがや牛込うしごめ(現新宿区)、駒込(現文京区)、下谷したや谷中やなか浅草あさくさ(現台東区)、深川(現江東区)などに寺町が形成されました。現在、これらの旧寺町界隈を散歩すると、参道の両側(広い通りに面した地)に一般の民家が食い込んで建ち並ぶ、凸型の境内地を有する寺院をよくみかけます。じつは、この凸型境内地の欠けた部分が、江戸時代に「門前」を称した町の名残ということも多いのです。「門前」の町名は消滅しましたが、街区の区割りにその痕跡をとどめている、といえるでしょうか。

 

高輪の寺町の一画。広(廣)岳院、証(證)誠寺、保安寺、泉岳寺などには「門前」がありました

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