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第119回 村岡五郎の住まい(2)

2016年06月03日

先回は「村岡」の地名を手がかりに、平将門の叔父である村岡五郎(=平良文)の居住地を探索しました。その結果、神奈川県藤沢市の旧村岡郷地区が最有力候補地、次いで茨城県下妻市の村岡地区(旧千代川村)と埼玉県熊谷市の村岡地区も候補地としての資格があり、ほかに千葉県香取市の阿玉台地区(旧良文村)に居館を構えていた形跡がみられることがわかりました。

この村岡五郎の住まいについては、郷土史研究家(東京都杉並区井草いぐさ地域が専門)の井口昭英氏が、「坂東八平氏の祖 村岡五郎 平良文について」という論稿を発表しています(「歴史研究」2006年11月号・12月号)。残された史料の少ない平良文について、井口氏は関係地を訪れ、土地の伝承や社寺の縁起なども収集して考証、そのうえで、次のように結論付けています。

1常州時代(青年期)
○下総国結城郡村岡(現茨城県下妻市)

2武州時代(青・壮年期)
○武蔵国秩父郡山田(現埼玉県秩父市)
   ↓
○武蔵国大里郡村岡(現埼玉県熊谷市)?

3相州時代(成年期)
○相模国大住郡田村(現神奈川県平塚市)

4総州時代(晩年期)
○下総国香取郡阿玉台(現千葉県香取市)

常州時代の「常州」は、実際には下総国(結城郡)なのですが、のちの下総国(香取郡)との混同を避けるために、現在の下妻市村岡が茨城県に属していることから、あえて「常州」としたようです。また、武州時代を「青・壮年期」、相州時代を「成年期」としています。普通は「青年」→「成年」→「壮年」と年を重ねてゆくのですが、井口氏は「成年」を「成熟した年齢」の意で用いているようで、論考を読む限り、「武州(秩父郡)」→「相州」→「武州(大里郡?)」と移ったのではなく、「武州」(秩父郡→大里郡?)→「相州」の順で移転したと立論しています。

なお、一般的な辞事典類では、平良文は「生没年不詳」と記されています。しかし、井口氏は諸系図・伝承などから、良文は仁和2年(886)に生まれ、天暦6年(952)に没したと推定しています。

井口氏があげる良文居住地のうち、「武蔵国秩父郡山田やまだ」と「相模国大住おおすみ郡田村」は、先回言及しなかった地名です。

先回言及しなかった秩父市山田地区は秩父盆地の北東部に位置する。

「秩父郡山田」について井口氏は、平恒望つねもちという人物に注目します。平恒望は一般の系図類には登場しないのですが、「新編武蔵風土記稿」の記述を援用した「高篠たかしの村誌」(高篠村は明治22年に秩父郡山田村・栃谷とちや村などが合併して誕生、昭和32年に秩父市に編入)によると、恒望は高望王(平良文の父)の弟で、良文にとっては叔父にあたる人物。武蔵権守に任じられた恒望王は秩父盆地の北東部に位置する「山田」に居館を構え、地内に日本武尊を勧請した高斯野たかしの社を祀ったといいます。恒望王の死後、その霊を高斯野社に合祀し、恒持つねもち明神社(現在は恒持神社)と改めたといいます。

井口氏は、平良文が叔父である恒望王の養嗣子となって下総国結城郡村岡から武蔵国の秩父盆地に移住、さらに、秩父盆地を貫流した荒川の下流域にあたる大里郡の村岡を開墾したのではないか、と推論します。ただし、村岡に開発拠点は設けたであろうが、良文が移住したかどうかは判然としない、との立場です。

次に「大住郡田村」については、良文が鎮守府将軍に任じられた際に、相模国に移住したのではないかと考えます。井口氏によると、その頃の鎮守府将軍は、平時、相模国に在住することが慣例であり、当時の相模国府(大住国府。比定地については諸説がある)に近い大住郡田村が良文の居所ではないかと推測します。その理由として、後代のことですが、良文の裔にあたる三浦氏の別荘が田村に設けられていたことをあげています。

同じく先回言及しなかった平塚市田村地区 。近くの四之宮地区も国府所在地の候補地。

先回、村岡五郎(平良文)の苗字の地として最有力候補地、と記した藤沢市旧村岡郷地区について、井口氏は、良文の子の忠通(「尊卑分脉」では忠道)の拠点であり、良文の居所ではなかったと考えているようです。

良文晩年の居所とした下総国香取郡阿玉台について、井口氏は、当欄が先回記した「本立」地区に良文の居館が設けられていたとし、この移住は、甥である平将門の遺領を継ぐかたちでの移住だった(この記述は「千葉氏系図」などに見えます)と推定します。さらに、良文は阿玉台で没し、同所の「夕顔ゆうがお 観音塚」とよばれる塚が良文の墓所と考えています。

良文は、その死に際して「我に会いたければ庭の夕顔を見よ」と言い残したという伝承が残されており、「夕顔」の名は良文の墓所にふさわしい、と井口氏は推論しますが、この夕顔の逸話は広く人口に膾炙していたようです。

ジャパンナレッジ「江戸名所図会」は、武蔵国葛飾かつしか飯塚いいづか村(現東京都葛飾区)の「夕顔観音堂」の項目で、――菊岡沾涼の「江戸砂子」に「村岡五郎平良文が墳墓の旧址なり」とあるけれども、その典拠はない――と記しています。「江戸名所図会」が「江戸砂子」の文言にわざわざ言及しているのは、「夕顔」と「平良文」の結び付きが広く知れわたっていたからではないでしょうか。

さて、ここまで記してきた井口氏の論をまとめると、以下のようになります。

下総国結城郡村岡(現茨城県下妻市)で青年期を過ごした平良文は、その居住地である村岡を苗字として「村岡五郎」と号した。その後、武蔵国秩父郡山田(現埼玉県秩父市)を居所とする叔父恒望王の養嗣子となって秩父盆地に移り、武蔵国大里郡村岡(現埼玉県熊谷市)の地を開墾した。鎮守府将軍に任じられた良文は、相模国府近くの相模国大住郡田村(現神奈川県平塚市)に転じ、子息らは近隣の鎌倉郡村岡郷(現神奈川県藤沢市)を開発する。晩年、将門の遺領を継承して下総国香取郡阿玉台(現千葉県香取市)に移り、同所で没した。

良文に関する資料を博捜したうえで立論された井口氏に対して、筆者は反駁する力量を持ち合わせていません。しかし、次回は地名と苗字の関係から一、二再検討をしたいと思います。

(この稿続く)