東京都文京区大塚5丁目に鎮座する吹上稲荷神社の謎に迫る最終回です。先回を引き継いで吹上稲荷神社の江戸時代後期における鎮座地の考察から始めます。
初回に述べましたように、江戸時代後期の鎮座地について、文京区ホーム・ページは小石川善仁寺境内、「吹上稲荷神社略記」は現在の小石川4丁目、「小石川区史」は智香寺境内、「東京案内」は大塚「吹上」の「外(周辺)」としています。
そして、前回言及したように、「新編武蔵風土記稿」の編纂にもかかわった松崎純庸が著した「小石川志料」(写本、「東京府文献叢書」所収。文政3年成立)では、智香寺境内に「正一位吹上山稲荷大明神」が祀られ、賀納院(=加納院。善仁寺に接している)にも「九尺一間ノ小堂」の吹上稲荷があり、さらに加えて、護国寺境内の「五社稲荷」は「吹上稲荷ト云吹上ヨリ移サル」と注されていて、江戸後期には大塚吹上の一帯周辺で、智香寺、加納院、護国寺の3か寺の境内にそれぞれ「吹上稲荷」が祀られていたことがわかりました。
文京区ホーム・ページが推す「善仁寺境内」については、「小石川志料」だけではなく、ほぼ同時期の「寺社書上」や「寺社備考」などでも「稲荷社」についての記述はありません。しかし、加納院は善仁寺に隣接しており、しかも、同院が明治時代にはなくなっていることを考えると、加納院境内=善仁寺境内と読み替えることも可能と思われます。
ところで、智香寺、加納院、護国寺の3か寺の候補地のうち、筆者が一番妥当だと考えているのは加納院境内です。といいますのも、まず智香寺は、徳川家康の母、於大の方の荼毘所跡に建てられたとの由緒をもっています。ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」には次のような記述がみえます。
慶長七年(一六〇二)に没した徳川家康の母於大の荼毘所(六〇間四方)跡地に正保元年(一六四四)に建立された。北半を光岳寺、南半を智香寺の境内(各一千八〇〇坪)とし、中間には廟を建て、一株の松を植えて目印としたという(寺社備考)。両寺の寺号は於大の法名(伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼)による。
江戸時代、徳川家康の母の荼毘所跡に建立されたという格式ある寺院の境内に、村(大塚村)の鎮守が村民によって奉祭されるということは、きわめて可能性が低いのでは? と筆者は考えます。徳川5代将軍綱吉の生母桂昌院の発願によって開かれた護国寺(護持院)の境内も同様に可能性は低いと思います。
かりに、初回に記したように「元和8年(1622)に2代将軍徳川秀忠が日光山から稲荷の神体を賜り、江戸城内吹上御殿内に祀って東稲荷宮と称し、5代綱吉のころ、江戸城内から一ツ橋に遷し、その後、水戸徳川家の連枝である松平大学頭家(奥州守山藩主)が拝領して邸内に移した」という吹上稲荷神社由緒の前段が正しかったとしても――事実ならば、智香寺境内、護国寺境内に祀られる可能性も充分に考えられます。
しかし、「宝暦元年(1751)に大塚(村)の鎮守として松平家から拝受」した時点で(村の鎮守となった時点で)、智香寺や護国寺の境内に祀られる可能性は消滅したと筆者は思います。消去法ですが、加納院境内を鎮座地として有力視する由縁です。
また、加納院は中山道蕨宿(現埼玉県蕨市)の三学院の末寺で(寺社書上)、「小石川志料」によると、御府内大災鎮護のために信州真楽寺(現長野県御代田町)の比丘正等の発願で始められた「八十八ヶ所永代月並両度行者回峰」の宿寺であり、吹上稲荷は九尺一間の小堂で、当時は南都西大寺(現奈良市)の旅宿になっていたといいます。
加納院(真言宗)は善仁寺境内の南西側に接して所在していた。
信州からの行者が逗留したり、西大寺僧が宿とするなど、何となく江戸の場末の荒れ寺的な雰囲気を漂わせていて、「村の鎮守」を奉祭するには絶好のシチュエーションに思われます。
さて次に、近代以降における鎮座地の変遷です。近代に入っていったん護国寺に遷座したことは諸資料とも共通しています。このことは加納院鎮座説を後押ししているのではないでしょうか。
といいますのは、智香寺は第二次世界大戦後の区画整理事業で現在の小石川5丁目から大塚3丁目へと寺地を遷しますが、明治維新の前後で所在地に変動はありません。一方、加納院は維新の混乱のなかで退転したと考えられ、維新後の資料に寺名を見つけることはできません。つまり、加納院に祀られていた場合、明治維新に護国寺へと遷される必然性が存在していたと考えられます。
じつは、筆者はこの護国寺への遷座について疑問をもっているのですが、その点については後述いたします。
その後の経緯については、薬師寺(文京区ホーム・ページ)、大塚上町(吹上稲荷神社略記)など、若干の相違がありますが、明治5年に大塚仲町に遷り(現在の不忍通りと春日通りが交差する大塚三丁目交差点の東南角)、明治45年に現在地(当時は大塚坂下町)に社地が定まったという流れは間違いないと思われます。明治時代に大塚仲町にあったことは、同時期の地図で確認でき、明治45年に現在地に遷座したことも諸書の一致するところです。
明治時代は現在の大塚三丁目交差点東南角に祀られていた。左上方に見えるのが現在の社地。
ただし、この現在地への遷座理由について、昭和58年(1983)発行の「ぶんきょうの史跡めぐり」(文京区教育委員会社会教育課)は、明治44年11月、東京市電が現在の春日通り沿いに大塚窪町―大塚辻町間で延伸開通し、その道路拡幅によるのではないかと推定しています。しかし、筆者には延伸開通した後で移転するのは少し不自然に感じられます。むしろ、その後の大正10年(1921)に不忍通りに沿って駕篭町―大塚仲町間で延伸開通(小石川区史)した際の道路拡幅が原因ではないかと考えます。
明治45年の遷座以前の諸地図を見ると、吹上稲荷神社旧社地(現在の春日通りと不忍通りの交差点)付近では、春日通りはある程度の幅員があるのに対して、現在の不忍通りは狭く、市電が通るには無理があるように思えます。電車が通る→社地を遷す、という順よりも、社地を遷す→電車が通るという順のほうが、事の前後の理にかなっていると考えられます。
ところで、先に掲げた「ぶんきょうの史跡めぐり」のなかで、吹上稲荷神社由緒に関するおもしろい記述を見つけました。それは、はじめ吹上御殿に「東稲荷宮」として祀られていたのが、5代将軍綱吉のときに「一ツ橋外護持院ヶ原」に移ったという記述です。
「護持院ヶ原」とは、将軍綱吉の信任が厚かった知足院隆光が神田橋外に寺地を賜って建てた護持院の跡地。護持院は享保年間(1716-36)の火災で焼亡すると、寺基を護国寺境内に移し、その後は護国寺・護持院体制で江戸時代を送っています。初回に文京区のホーム・ページからまとめたものとして紹介した「5代綱吉のころ、江戸城内から一ツ橋に遷し、その後、水戸徳川家の分家松平大学頭(奥州守山藩主)が拝領し、邸内(現在の「教育の森公園」一帯)に移した」という吹上稲荷神社由緒の前段とも関わってきます。
つまり、「一ツ橋」「護持院ヶ原」にあったというのは、護持院の所在と重なっており、前回述べた護国寺(護持院)境内に祀られていた「五社稲荷」(別名吹上稲荷)の由緒を想定させるものがあります。吹上稲荷神社の推移・変遷について、これまでの筆者の検討と推理をまとめますと、以下のようになります。
江戸時代のはじめまで小石川村大塚の字吹上地区に村人が奉祀する小祠があった。その境内地は松平大学頭家の邸地に差し出すことになったため、小さな寺(加納院)の境内の一画に遷し祀ることとし、その後、流行神となった稲荷神を主祭神に奉るようになった。
明治維新を迎えて加納院は退転、吹上稲荷社は明治5年に大塚仲町に遷る。この間の経緯は、現境内に掲げる「吹上稲荷神社略記」に記される――護国寺月光殿から大塚上町にあったとする説――に着目。筆者は、吹上稲荷神社は加納院退転後、大塚上町(吹上稲荷の所在地としては「吹上稲荷神社略記」にのみ記される町名)に仮宮を設け、大塚仲町の新しい境内地が整備されるまで奉祀されていたと推測。
この時、月光殿に祀られていた「五社稲荷」(別名吹上稲荷)は、神仏分離令の影響を受け、仮宮にあった吹上稲荷神社にあわせ祀られる。合祀の後、大塚仲町の新社地に遷座、この間に護国寺五社稲荷の縁起と加納院に祀られていた吹上稲荷の縁起との間で混淆が生じ、やがて、「江戸城内吹上御殿内に祀って東稲荷宮と称したのに始まる」といった由緒が誕生する。
もちろん、維新後すぐに護国寺境内に遷座した可能性は否定できないし、あわせ祀ったのは護国寺の「五社稲荷」だけではなく、智香寺の「正一位吹上山稲荷大明神」も同様に合祀した可能性もある。
大塚仲町に遷移後、境内地前まで市電が延伸することとなり(実際には大正10年開通)、その道路拡幅のため明治45年に現在地(当時は大塚坂下町)に移転した。
いかがでしょうか。以上はあくまで筆者の推測であり、想像の産物です。実際の動向、あるいは読者諸氏の考えはまた別のところにあるかとも思います。神社の由緒・縁起は――たとえ小祠であったとしても――一筋縄ではゆかないところがあります。ただ、今回の検討を通して、吹上稲荷神社がその勧請以来、人々(小石川村大塚地区の住人)の厚い信仰を集め続けてきたことだけは、確かなことといえるのではないでしょうか。
(この稿終わり)