日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第131回 貝塚はないのに……(2)

2017年06月02日

先回は、全国に数多く(本州中央部に厚く)分布する江戸時代の「貝塚村」のほとんどは、近くに所在する(縄文時代を中心とした)貝塚遺跡がその村名由来となっている……ただし、現在の大阪府貝塚市の「貝塚村」だけは、周囲に村名の淵源となる貝塚遺跡が想定できない……と記しました。大阪府貝塚市といえば、大阪湾に面し、バレーボール「東洋の魔女」の母胎となった日紡貝塚(のちニチボー貝塚、現ユニチカ・フェニックス)チームの本拠地として、広く知られるところです。

では、大阪府貝塚市の「貝塚村」はどんな村なのか、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の該当項目の記述をのぞいてみましょう。

貝塚寺内の南東隣にある村で、貝塚寺内とは本来一村であったと推定されている。南郡に属する。海塚村とも書く。元禄郷帳に「海塚かいづか村」、天保郷帳に貝塚村とあり、南海塚みなみかいづか村ともいった(和泉志)。江戸時代中頃から村方を海塚、寺内を貝塚と区別して表記する傾向が強いが、明治一八年(一八八五)内務省地理局編「地名索引」、大正一二年(一九二三)刊「市町村大字読方名彙」には海塚と書いてカイヅカと読ませており、海塚をウミヅカと読むようになったのは近年である。

とあります。古くは「海塚」とも表記され、現在の町名も「貝塚市海塚」で、読みはウミヅカなのですが、本来の読みは「カイヅカ」であったと考えてよさそうです。また、古くは和泉国みなみ郡に属していたことがわかります。江戸時代より前の様子については、

中世、一部は高野山丹生神社領近木こぎ庄に含まれていたようで、永享三年(一四三一)一〇月日付の近木庄高野御段銭田数散用状(高野山文書)に「海塚弐段」とみえる。しかしおおかたは麻生あそう郷に属し、天文二年(一五三三)五月八日の富庭村田地売券(中家文書)に「麻生本郷(ママ)海塚池」と記される。

とあり、永享3年(1431)段階で史料に「海塚」の表記が確認できること、一部は近木庄(和泉国日根ひね郡の郡域)に含まれていたものの、大部分は(木島きのしま庄)麻生郷(和泉国南郡の郡域)に属していたことなどが判明します。

本来一村であったという「貝塚寺内」について、その概観を「日本歴史地名大系」の【貝塚寺内】項目は次のように記します。

大阪湾を西に望み、本願寺貝塚御坊(願泉寺)を中心に発達した寺内町。紀州街道が町を縦断。中之なかの町・北之きたの町・南之みなみの町・西之にしの町・近木之こぎの町の五ヵ町に区画されている。南郡に属する。古くは海塚とも書き、天文一九年(一五五〇)卜半斎了珍を願主とした麻生郷の草庵に本願寺証如から阿弥陀如来画像(願泉寺蔵)が下付されたが、その裏書に「麻生郷堀海塚」とみえる。

「近木之町」の町名があることは、南郡に属していながらも、日根郡域に成立した近木庄の領域にもかかっていた可能性が推定でき、先の記述とあわせると、南郡と日根郡の境界領域にあったことがわかります。筆者は、この両郡の境界に位置したことから、「境界塚」が建てられていて、「(境)界塚」に関連した地名ではないか? などと想像します(海浜に建立されていたことから「海塚」の表記になったのかもしれません)。

また、前掲の「麻生本郷(ママ)海塚池」と「麻生郷堀海塚」をあわせて勘案すれば、海を掘って塚(小高い土地)を築き、溜池(和泉国では古くより盛んに造成されていた)をつくったことも考えられ、「海塚」は「海掘り塚」に関連するか? などと想像したりもします。

貝塚市を含む大阪府の南部(旧和泉国の一帯)には溜池が多い。

「日本歴史地名大系」は引き続いて、貝塚寺内の草創を次のように記します。

寺内の草創について天正一五年(一五八七)の貝塚寺内基立書(薬師家文書)に「貝塚ハ往古五丁余ノ松原ナリ、白砂ニ庵寺一宇民家三十六軒アリ、此庵行基大士ノ遺跡也ト云、応仁年中蓮如上人御逗留アリ、年久住僧ナク此地ニ集ル人々相議シ、京都ノ落人右京坊殿ヲ根来寺ヨリ迎ヘ住持トス、其本姓ノ貴キト、才徳ノ高キトヲ尊ンテ長トス、右京坊ヲ卜半斎ト改ム、天文十九年艸庵ヲ再興シ弥陀ノ絵像ヲ安置シテ頻宗風ヲ興ス」とある。この草庵がのちの貝塚御坊で、天文二四年この庵を中心として石山いしやま本願寺(跡地は現東区)下の寺内に取立てられた。(以下省略)

このあたりの経緯は、ジャパンナレッジ「世界大百科事典」の【貝塚市】項目中の「貝塚寺内」に次のように要約されています。

和泉国の寺内町。北の大津川と南の近木(こぎ)川にはさまれ海岸に沿って南北に長く立地する。中世には木島(きのしま)荘と近木(こぎ)荘に属し,36戸の海村貝塚村が,1545年(天文14)に以前からあった寺庵に卜半斎(ぼくはんさい)了珍という僧を根来寺から招いて道場とした。50年にこの道場は,本願寺証如から阿弥陀画像を交付されて真宗の道場となり,この地は地域流通の結節点である寺内町に発展していった。77年(天正5)織田信長の雑賀(さいが)攻めの時,坊舎は破壊されたが,80年に再興し板屋道場と称した。信長によって石山本願寺から紀伊鷺森に退去させられていた顕如は,83年から3年間,大坂天満に移るまでここに寺基を置き貝塚御坊と称した。寺内町の町立て(都市計画)が完成するのはこのころで,南北4町余の地を幅3間の堀が囲み,中央を南北に紀州街道が貫通して,道の東に接して道場が建てられていた。その後,道場は願泉寺となり,寺内町は卜半(斎)家と20人の年寄によって運営された。

貝塚の寺内町は、貝塚御坊=願泉寺を核として発達した。

白砂青松の海浜の寒村から、願泉寺(貝塚御坊)を核に紀州街道要衝の町場(寺内町)として発展していった様子がうかがえます。

じつは、「貝塚」の地名由来について、「日本歴史地名大系」の【貝塚市】項目では「貝塚市史」(貝塚市役所、1955~58年刊)を引いて次のように記述しています。

貝塚という名称の起源は全国の他の同名の場所と同様、考古学的な貝塚と考えられる。遺跡は現存しないが、かつてはあったものが、水没したものと推定される(貝塚市史)。

「貝塚市史」は地名を貝塚由来とし、かつてあった貝塚遺跡が水没した……と推定しています。しかし、「日本歴史地名大系」の「大阪府の地名」【総論】の項目が記述するように、大阪府南部(旧和泉国地域)の縄文時代(後期)の遺跡は(たとえば、堺市の四ツ池遺跡に代表される)、台地の縁辺に営まれることが多く、貝塚御坊(願泉寺)が立地するような海浜の低地では、ほとんどみつかっていません。また、大阪湾岸において、(縄文時代以降に、遺跡が水没するほどの)大規模な海浜後退現象があったという話も、管見の限りではありません。

とはいっても「貝塚市史」が発刊された頃は、日本考古学は発展途上にあり、発掘調査の蓄積も充分といえる段階ではなかったような気がします。だからといって、筆者は大阪府貝塚市の「貝塚」地名が考古学上の貝塚に由来することを完全に否定するつもりもありません。ただ、「(境)界塚」に由来するとか、「海掘り塚(池)」に由来するといった筆者の妄想についても、地名由来の候補の一つに加えておいてほしい、と思う次第です。

(この稿終わり)