日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第87回 和紙の里めぐり(2)

2015年01月09日

和紙の里をめぐる旅の第2回目です。今回は、昨年まとめてユネスコ無形文化遺産リストに記載された「石州半紙せきしゅうばんし」「本美濃紙ほんみのし」「細川紙ほそかわし」の周辺を旅してみましょう。まずは「石州半紙」から。

石州半紙は江戸時代に石見いわみ国(石州)に藩庁を置いた津和野つわの藩・浜田はまだ藩が紙漉を奨励したことから、両藩領で漉かれた半紙の総称としてその名が全国に知れ渡るようになり、石州紙、石見紙、石見半紙などともよばれました。

そこで、ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択し、「石州半紙」「石州紙」「石見紙」の3つのキーワードを入力、いずれも「全文(部分一致)」「OR検索」の条件で検索をかけますと9件ヒットします。

県別でみますと、当然のことながら旧石見国が属する島根県が多いのですが(7件)、なかには新潟県の【佐渡金銀山】の項目で、江戸時代の佐渡郡相川あいかわ町(金銀山の鉱山町。現佐渡市)への移入品目として「石見紙」がみえ、また、広島県佐伯さえき廿日市はつかいち町(現廿日市市)の【津和野藩船屋敷跡】の項目で、津和野藩の御紙船が大坂方面への「石州紙」の積み出しにあたっていた、との記述もあります。

この検索結果からは、「石州半紙」が江戸時代、津和野・浜田両藩の特産で(県別ヒットが島根県に集中)、その一方で、販路は全国に広がっていたことが確認できると思います。

なお、ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」によりますと、「半紙」とは、

古くは、縦八寸・横二尺二寸の紙を半截(はんさい)したもの。後に半紙として独立し、縦八寸(二四・二センチメートル)横一尺一寸(三三・三センチメートル)に漉(す)くようになり現在に及んでいる。用途は広く、大福帳、記録帳、書状などに用いられた。明治以後は主に習字に用いられている。

とあります。小学生の頃に習字で使ったあの紙です。現在の石州和紙は半紙のほかにも「画仙紙、書画用紙、賞状用紙、染め紙、封筒、便箋、葉書、名刺、色紙、和帳、巻紙」など多様な製品があります(石州半紙技術者会・石州和紙協同組合のホームページ)。

続いては「本美濃紙」。美濃国で産出する和紙(美濃紙)は、古くからその品質のよさで知られていました。ジャパンナレッジ「日本大百科全書」の【美濃紙】の項目は次のように記します。

美濃国(岐阜県)を原産とする紙の総称。美濃はもっとも古くからの和紙の名産地で、(中略)応仁(おうにん)の乱(1467〜1477)後、美濃一帯を統治した土岐成頼(ときしげより)の施政により、中世以降この地方の一大産業としての地位を確保した。(中略)また和本の用紙にも使われて、美濃本あるいは美濃判の名が一般化した。(中略)とくに書院紙は障子紙として有名で、1777年(安永6)刊の木村青竹(せいちく)編『新撰紙鑑(しんせんかみかがみ)』にすでに「凡(およ)そ障子紙の類は美濃を最上とす」との評価を受け、美濃紙を書院紙の別名のようにいうこともあった。

美濃判(縦9寸、横1尺3寸)は、美濃紙が障子紙としての名声を得たことから障子(紙)の規格寸法として定着、これを2つ折にして綴じた本(縦=約27センチ、横=約19センチ)も美濃判、または美濃紙判とよび、江戸時代前期の和本の標準となり、現在のJIS規格B列の基準となりました。一般の週刊誌(B5判)は美濃紙判の和本を縦横ともに、ほんの少しだけ小さくした寸法です。

ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」で「美濃紙」と入力し、「全文(部分一致)」をかけますと67件がヒットします。県別でみると、あたりまえのことなのですが、旧美濃国が属する岐阜県が32件と約半数を占めています。しかし、残る35件は、都道府県別ではゼロヒットも多くあるのですが、地方別でみると、東北地方から九州地方まで、万遍なく分布しています。前述したように障子紙(書院紙)に美濃紙の通称があったことから、このような分布になったのかもしれません。この点は、石州半紙のヒット分布とは違う傾向が読み取れます。

現在でも岐阜県は、美濃地方を中心に紙業や関連産業(岐阜提灯、岐阜和傘、岐阜団扇など)が盛んですが、美濃和紙のなかでも、楮のみを原料とし、手漉ほかの伝統的な技術で製造された高級和紙を「本美濃紙」としてブランド化、伝統技術の保持・継承に努めています。

今回の最後は「細川紙」の周辺をめぐります。細川紙は、古くは奉書ほうしょ紙として用いられることが多く、「細川奉書」などともよばれていました。ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」の【細川紙】の項目には「純楮(こうぞ)製の和紙の一種。主に帳簿などに用いられた。和歌山県高野山中腹の細川の原産といわれるが、江戸時代からはもっぱら埼玉県比企郡小川町周辺で漉(す)かれている。」とみえます。

「和歌山県高野山中腹の細川」とは、現在の和歌山県伊都いと高野こうや町細川地区のこと。この高野町の北隣にあたる伊都郡九度山くどやま町のホームページには、町内にある高野紙(古沢こさわ紙)の伝統文化と技術を伝える体験資料館「紙遊苑」について説明するなかで、「高野紙」のことを次のように記します。

弘法大師は、この地に手漉き和紙の技術を伝えました。
この和紙は、高野紙(古沢紙)と呼ばれ、厚手で丈夫であったため、傘紙、障子紙、合羽、紙袋、ちょうちんに張る紙などとして、利用されてきました。(中略)紙漉の技術は大切に守られ、期間を決めて作られ、他村の者に伝えない定めもあったそうです。
館内にある大きな七夕飾りは、埼玉県小川町の細川紙で作られたものです。
紙漉にも様々な技法や道具があります。特に道具は作り方が地域によって異なり、その作り方は、門外不出、広まるのを恐れて、結婚相手さえもその集落の中でと決まっていたようです。そのため、たまたま類似していることはまず無いそうです。しかし、和歌山県の九度山町と埼玉県の小川町、遠く離れた町で作られる2つの和紙の道具はとても似ており、高野和紙が細川和紙として伝わったと言われるようになりました。

いつ、どのような形で技術が伝播したかは不明なのですが、江戸時代には武蔵国比企ひき郡を中心として秩父ちちぶ郡や男衾おぶすま郡で製造された手漉和紙は「細川紙」の名でよばれ、江戸で消費されました。ただし、この頃は「奉書紙」として用いられたのではなく、帳簿など日用紙として庶民の支持を得ていました。

ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」で「細川紙」と入力し、「全文(部分一致)」をかけますと16件がヒット。この16件の内訳は、埼玉県の【総論】項目が1件、14件が同県比企郡域の項目、残る1件が同県秩父郡域の項目で、それ以外はありません。また、同様に「高野紙」で検索しますと、6件がヒット。【紀伊国】【伊都郡】両項目でヒットしたほかは、すべて九度山町域の項目でした。

高野紙(古沢紙)の産地であった九度山町古沢地区

これらの結果から、次のようなことが類推できるのではないでしょうか。

1、高野町細川地区は紀の川支流の丹生にう川に注ぐ不動谷ふどうだに川の上流域に位置します。この地区で漉かれていた紙は「細川紙」とよばれ、奉書紙として名声を博しました。

2、九度山町古沢地区は、高野町細川地区のすぐ下流域に位置します。時代は不明ですが、細川地区から紙漉の技術が伝播します。さらにその後、その技術は現在の埼玉県小川町一帯に伝播しました。

3、細川地区から古沢地区に伝播したのではなく、紙漉は、はじめから両地区で行われており、当初は上流の(高野山により近い)細川地区の名を採って「細川紙」とよばれた可能性もあるでしょう。

4、江戸時代、細川地区では紙漉は衰退しました(「日本歴史地名大系」でノーヒット)。古沢地区では紙漉が盛行しますが、そこで製造された紙は、「細川紙」とはよばれず、いつしか高野紙とよばれるようになりました(「細川紙」ではノーヒット)。

5、江戸幕府が開かれると、大消費地となった江戸に近い、現在の埼玉県比企郡小川町を中心とする武蔵国比企・秩父・男衾の3郡域で紙漉が盛んとなります。この地域に細川紙の製造技術が伝播した経緯は不明ですが、同地域で産する紙は、ルーツであった「細川紙」の名でよばれ、普段使いの紙として江戸で消費されました。

1から5の細川紙の転変は、あくまでも筆者の推測です。当たるも八卦、当たらぬも八卦の域を出ませんが、紙漉の地域分布傾向ひとつをとってみても、いろいろな謎が隠されているようです。

次回も「和紙の里めぐり」の旅を続けます。

(この稿続く)