和紙の里をめぐる旅の第2回目です。今回は、昨年まとめてユネスコ無形文化遺産リストに記載された「
石州半紙は江戸時代に
そこで、ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択し、「石州半紙」「石州紙」「石見紙」の3つのキーワードを入力、いずれも「全文(部分一致)」「OR検索」の条件で検索をかけますと9件ヒットします。
県別でみますと、当然のことながら旧石見国が属する島根県が多いのですが(7件)、なかには新潟県の【佐渡金銀山】の項目で、江戸時代の佐渡郡
この検索結果からは、「石州半紙」が江戸時代、津和野・浜田両藩の特産で(県別ヒットが島根県に集中)、その一方で、販路は全国に広がっていたことが確認できると思います。
なお、ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」によりますと、「半紙」とは、
古くは、縦八寸・横二尺二寸の紙を半截(はんさい)したもの。後に半紙として独立し、縦八寸(二四・二センチメートル)横一尺一寸(三三・三センチメートル)に漉(す)くようになり現在に及んでいる。用途は広く、大福帳、記録帳、書状などに用いられた。明治以後は主に習字に用いられている。
とあります。小学生の頃に習字で使ったあの紙です。現在の石州和紙は半紙のほかにも「画仙紙、書画用紙、賞状用紙、染め紙、封筒、便箋、葉書、名刺、色紙、和帳、巻紙」など多様な製品があります(石州半紙技術者会・石州和紙協同組合のホームページ)。
続いては「本美濃紙」。美濃国で産出する和紙(美濃紙)は、古くからその品質のよさで知られていました。ジャパンナレッジ「日本大百科全書」の【美濃紙】の項目は次のように記します。
美濃国(岐阜県)を原産とする紙の総称。美濃はもっとも古くからの和紙の名産地で、(中略)応仁(おうにん)の乱(1467〜1477)後、美濃一帯を統治した土岐成頼(ときしげより)の施政により、中世以降この地方の一大産業としての地位を確保した。(中略)また和本の用紙にも使われて、美濃本あるいは美濃判の名が一般化した。(中略)とくに書院紙は障子紙として有名で、1777年(安永6)刊の木村青竹(せいちく)編『新撰紙鑑(しんせんかみかがみ)』にすでに「凡(およ)そ障子紙の類は美濃を最上とす」との評価を受け、美濃紙を書院紙の別名のようにいうこともあった。
美濃判(縦9寸、横1尺3寸)は、美濃紙が障子紙としての名声を得たことから障子(紙)の規格寸法として定着、これを2つ折にして綴じた本(縦=約27センチ、横=約19センチ)も美濃判、または美濃紙判とよび、江戸時代前期の和本の標準となり、現在のJIS規格B列の基準となりました。一般の週刊誌(B5判)は美濃紙判の和本を縦横ともに、ほんの少しだけ小さくした寸法です。
ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」で「美濃紙」と入力し、「全文(部分一致)」をかけますと67件がヒットします。県別でみると、あたりまえのことなのですが、旧美濃国が属する岐阜県が32件と約半数を占めています。しかし、残る35件は、都道府県別ではゼロヒットも多くあるのですが、地方別でみると、東北地方から九州地方まで、万遍なく分布しています。前述したように障子紙(書院紙)に美濃紙の通称があったことから、このような分布になったのかもしれません。この点は、石州半紙のヒット分布とは違う傾向が読み取れます。
現在でも岐阜県は、美濃地方を中心に紙業や関連産業(岐阜提灯、岐阜和傘、岐阜団扇など)が盛んですが、美濃和紙のなかでも、楮のみを原料とし、手漉ほかの伝統的な技術で製造された高級和紙を「本美濃紙」としてブランド化、伝統技術の保持・継承に努めています。
今回の最後は「細川紙」の周辺をめぐります。細川紙は、古くは
「和歌山県高野山中腹の細川」とは、現在の和歌山県
弘法大師は、この地に手漉き和紙の技術を伝えました。
この和紙は、高野紙(古沢紙)と呼ばれ、厚手で丈夫であったため、傘紙、障子紙、合羽、紙袋、ちょうちんに張る紙などとして、利用されてきました。(中略)紙漉の技術は大切に守られ、期間を決めて作られ、他村の者に伝えない定めもあったそうです。
館内にある大きな七夕飾りは、埼玉県小川町の細川紙で作られたものです。
紙漉にも様々な技法や道具があります。特に道具は作り方が地域によって異なり、その作り方は、門外不出、広まるのを恐れて、結婚相手さえもその集落の中でと決まっていたようです。そのため、たまたま類似していることはまず無いそうです。しかし、和歌山県の九度山町と埼玉県の小川町、遠く離れた町で作られる2つの和紙の道具はとても似ており、高野和紙が細川和紙として伝わったと言われるようになりました。
いつ、どのような形で技術が伝播したかは不明なのですが、江戸時代には武蔵国
ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」で「細川紙」と入力し、「全文(部分一致)」をかけますと16件がヒット。この16件の内訳は、埼玉県の【総論】項目が1件、14件が同県比企郡域の項目、残る1件が同県秩父郡域の項目で、それ以外はありません。また、同様に「高野紙」で検索しますと、6件がヒット。【紀伊国】【伊都郡】両項目でヒットしたほかは、すべて九度山町域の項目でした。
高野紙(古沢紙)の産地であった九度山町古沢地区
これらの結果から、次のようなことが類推できるのではないでしょうか。
1、高野町細川地区は紀の川支流の
2、九度山町古沢地区は、高野町細川地区のすぐ下流域に位置します。時代は不明ですが、細川地区から紙漉の技術が伝播します。さらにその後、その技術は現在の埼玉県小川町一帯に伝播しました。
3、細川地区から古沢地区に伝播したのではなく、紙漉は、はじめから両地区で行われており、当初は上流の(高野山により近い)細川地区の名を採って「細川紙」とよばれた可能性もあるでしょう。
4、江戸時代、細川地区では紙漉は衰退しました(「日本歴史地名大系」でノーヒット)。古沢地区では紙漉が盛行しますが、そこで製造された紙は、「細川紙」とはよばれず、いつしか高野紙とよばれるようになりました(「細川紙」ではノーヒット)。
5、江戸幕府が開かれると、大消費地となった江戸に近い、現在の埼玉県比企郡小川町を中心とする武蔵国比企・秩父・男衾の3郡域で紙漉が盛んとなります。この地域に細川紙の製造技術が伝播した経緯は不明ですが、同地域で産する紙は、ルーツであった「細川紙」の名でよばれ、普段使いの紙として江戸で消費されました。
1から5の細川紙の転変は、あくまでも筆者の推測です。当たるも八卦、当たらぬも八卦の域を出ませんが、紙漉の地域分布傾向ひとつをとってみても、いろいろな謎が隠されているようです。
次回も「和紙の里めぐり」の旅を続けます。
(この稿続く)