日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第47回 湊・津・泊・浦、……そして今津(3)

2010年12月24日

先回はJK版「日本歴史地名大系」のキーワード分布図機能を活用して得られた「今津」地名の分布状況から、「今津」の地名は西廻海運の航路と重なり合うのでは? という仮説を立ててみました。

では、実際のところどうなのか? 「日本歴史地名大系」で各地の「今津」項目を読んで検証、その結果を一覧表にしてみました(下掲)。

「所在地」欄は「日本歴史地名大系」刊行時の市町村名で、その後、合併によって変更があった場合は( )内に新市町村名を記しました。
「項目名称」欄は「日本歴史地名大系」で立項されている項目の名称で、同一地域に複数の項目が立項されていた場合は、「船の停泊地」に最も関連が深い項目を挙げました。
「海・湖・川」欄は、海に面している場合に◎印、舟運の発達していた湖や河川に面している場合は○印で、×印は海・湖・川に全く関係のない場合です。
「港湾施設」欄は、項目で港湾施設に言及している場合は○印、筏流しの中継地など、港湾に準じた機能に言及している場合は△印、港湾施設に言及していない場合は×印です。
「西廻海運」は西廻航路についての記述がある場合に○印、直接ではないが、関連する記述がある場合は△印、×印はまったく言及していない場合です。
最後の「史料に出現」欄は、「今津」の地名が、信頼のおける史料にみえる早い時期を記しました。

「今津」項目の検証結果一覧
 
所在地項目名称海・湖・川港湾施設西廻海運史料に出現
青森県平舘村(外ヶ浜町)今津村×17世紀後半
千葉県市原市今津朝山村×16世紀半ば
東京都台東区今津×15世紀半ば
滋賀県今津町(高島市)今津湊×13世紀半ば
京都府亀岡市今津村×17世紀半ば
大阪府大阪市鶴見区今津村××13世紀半ば
兵庫県神戸市西区今津村××19世紀はじめ
兵庫県西宮市今津村13世紀後半
兵庫県城崎町(豊岡市)今津村×17世紀前半
兵庫県加古川市今津村××17世紀はじめ
兵庫県高砂市今津町×17世紀後半
鳥取県淀江町(米子市)今津村×16世紀後半
島根県安来市今津村×15世紀後半
島根県西郷町(隠岐の島町)今津村14世紀はじめ
岡山県高梁市今津村×17世紀前半
広島県福山市今津村×15世紀後半
山口県岩国市今津17世紀はじめ
徳島県那賀川町(阿南市)今津浦×16世紀末
香川県丸亀市今津村×××17世紀半ば
福岡県福岡市西区今津浦×12世紀後半
福岡県北九州市門司区今津村×17世紀はじめ
大分県中津市今津村×14世紀前半

 

「海・湖・川」では、香川県丸亀市の「今津村」を除き、すべて海、または(舟運が発達した)湖や川に面していました。「港湾施設」でも、ほとんどの「今津」に港湾施設、または類似施設が備わっていることが確認できます。ここまでは「西廻海運」の湊として合格のようです。ところが、実際に「西廻海運」の航路に関する記述があるかどうかを検証してみたところ、兵庫県西宮市の「今津村」、島根県西郷町(隠岐の島町)の「今津村」、岩国市の「今津」で少しだけ関連する記述がみられたものの、「西廻海運」の寄港地だという記述はありませんでした。筆者の仮説は見事にはずれました。臆測は単なる妄想にすぎなかったようです。

日本海沿岸から下関を廻り、瀬戸内海を経て大坂へと向かう航路は江戸時代以前から利用されていた航路ですが、本格的な西廻海運の航路(大坂から紀伊半島を廻って江戸にまで達する航路も含めて)の整備が行われたのは寛文年間(1661-73)河村瑞賢かわむらずいけんによってでした。

筆者は小学生のとき、「河村瑞賢が西廻航路、東廻航路を開発した」ということを教わった際、ぼんやりと「海の中に防波堤で挟まれた道路のようなものを作ったのだろうか」などと想像していました。長じて、航路の開発とは、水や薪炭を補給することができる湊(それも風向きを考慮した良港)を適当な間隔を置いて造成し、そして、その湊(集落)を維持・保全する仕組みを整備することだと知り、胸のつかえが取れる思いをしました。

この経験が強烈であったためか、「今津」というのは河村瑞賢によって新たに整備された湊にピッタリする地名ではないか! と妄想を膨らませてしまったようです。最後の「史料に出現」欄をみると、ほとんどの「今津」地名は河村瑞賢が西廻航路を開発する寛文年間より前に、すでに史料のうえで確認できる地名であったこともわかります。

ところで、「今津」というからには「古津」や「元津」があったはずに違いない! という新たな疑問が筆者に湧き起こりました。しかし、各地の「今津」項目を調べてみると、東京都台東区の「今津」、滋賀県今津町(高島市)の「今津湊」、鳥取県淀江町(米子市)の「今津村」、徳島県那賀川町(阿南市)の「今津村」では各「今津」に対しての「古津」(元津)の存在に言及していますが、それ以外の「今津」項目では古津や元津に言及していませんでした。ただ、そのヒントともいうべき記述が兵庫県加古川市の「今津村」にありました。

加古川市の「今津村」の記述はこうです。
『しかし寛永二年(一六二五)藩主本多忠政は加古川対岸の高砂に町場を形成することに決め今津村住民は村ごと高砂町へ移住することとなり今津村は消滅した(「高砂町由緒口上書」同文書)。』
つまり、加古川市の「今津村」の住人を対岸の高砂地域に移して誕生したのが兵庫県高砂市の「今津町」だったのです。そのために加古川市の「今津村」は消滅してしまいました。

「今津」誕生の裏で「古津」はその港湾機能を失い、以後、港湾集落として存続することは困難となる……集落が維持できなくなれば、住人も散り散りとなり、やがて地名も消失する……こうした流れで「今津」に対応する「古津」(元津)地名が残されるケースは非常に稀なこととなるのではないか? というのが筆者の新たな仮説です。ただし、この新しい仮説の検証も容易ではありません。何しろ「地名が消失する」ということを前提にしているのですから。

ところで、皆さんもJK版「日本歴史地名大系」のキーワード分布図機能を活用して、さまざまな地名の分布を調べてみませんか? そして、その分布傾向を基にいろいろと仮説を立ててみる、たとえその仮説があたっていなくとも、何か発見があるかもしれません。キーワード分布図機能で新たな想像の空間を広げてみてはいかがでしょうか。

 

(この稿終わり)

 

かつて「今津村」があった尾上町養田(おのえちょうようた)地区。住人は加古川対岸の
高砂地区に移り「今津町」を開いたが、旧地では「今津」の地名が消滅してしまった。

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