日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
地名の由来、歴史、風土に至るまで、JK版「日本歴史地名大系」を駆使して解説します。
さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第122回 半蔵門線に沿って

2016年09月02日

弊社(株式会社ネットアドバンス)の所在地は東京都千代田区神田かんだ神保町じんぼうちょう。一般には「神田」の冠称を省いて「神保町」とよばれています。最寄駅の駅名も「神保町駅」で、都営地下鉄三田みた線・新宿しんじゅく線や東京メトロ(東京地下鉄株式会社)半蔵門はんぞうもん線が通る交通至便の地。古書店が軒を並べ、大型書店や出版社も集まる「本の街」として夙に知られています。

江戸時代、現在の神保町一帯は江戸城の北東方に広がる武家地の一画を占めていました。江戸城下の武家地に正式な町名は付けられていなかったのですが、俗称では小川町おがわまちとよばれていたようです。元禄2年(1689)、旗本の神保長治がここに屋敷地を拝領、その屋敷前を通っていた往還は、いつしか「神保小路」とよばれるようになります(ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」など)。

維新後の明治5年(1872)、「神保小路」周辺の武家地がまとめられて表神保町・裏神保町・北神保町・南神保町の4か町が成立し、その後の区画変更や町名変更を経て、現在の千代田区神田神保町1~3丁目が生まれました。神保町の町名は旗本神保氏に由来するといえるでしょう。

江戸後期に幕府が編纂した武家の系譜集「寛政重修諸家譜」では、諸説はあるものの、現在の神田神保町に屋敷を拝領した「神保長治」は惟宗姓とされています。太田亮の「姓氏家系大辞典」によれば、惟宗姓神保氏の苗字の地は「上野国多胡たご辛科からしな神保じんぼ邑」、現在の群馬県高崎市吉井町よしいまち神保じんぼにあたります。

そうしますと、千代田区神田神保町は、群馬県高崎市吉井町神保地区に発生し、神保氏によって江戸まで運ばれた地名ということになります。

旗本神保家由来の東京都千代田区の神田神保町地区

神保家の本貫の地である群馬県高崎市吉井町神保

半蔵門線神保町駅から渋谷方面へ向かって3つ目の駅は「永田町ながたちょう駅」。同駅の所在する千代田区永田町(1~2丁目)も神田神保町と似たような地名由来をもっています。

永田町といえば「国会議事堂があり政治の中心地で、(中略)日本政界の代名詞」(ジャパンナレッジ「日本大百科全書(ニッポニカ)」)といわれますが、江戸時代には神保町と同じく武家地でした。神保町とは江戸城(皇居)を挟んで対角線上にあたり、また、武家地のほかに山王さんのう権現(現日枝ひえ神社)の境内やその門前町屋などもありました。

江戸時代の初期、山王の門前近くに馬場(乗馬練習場)があり、周囲に永田姓の旗本屋敷が並んでいたため「永田馬場」とよばれるようになり、馬場がなくなった後も馬場跡の往還やその周辺を「永田馬場」と俗称するようになったといいます。

明治2年(1869)、この一帯の武家地と日枝前ひえまえ町(旧永田馬場山王門前)をあわあせて永田町が成立、同5年、これに日枝神社境内敷地をあわせて1・2丁目に分割し、現在の千代田区永田町1~2丁目の骨格が定まりました。

馬場近くに屋敷を構えていた永田氏一族について、前掲の「寛政重修諸家譜」は藤原姓としています。ただし、永田氏が幕府に提出した系譜によれば源姓(宇多源氏)で、近江国高島たかしま永田ながた(現在の滋賀県高島市永田)が苗字の地であるとの注記があります。

永田氏提出の系譜が正しければ、永田氏の祖先は近江佐々木氏の流れを汲んで高島郡に勢力を扶植した諸家(一部、佐々木流ではない家もありますが)=「高島七頭」の一に数えられる有力在地領主だったことになります。

そうしますと、「永田」の地名も神保氏によって運ばれた「神保」と同様に、永田氏によって近江国から江戸に運ばれた町名ということになります。もっとも、ジャパンナレッジ「風俗画報」などは、この馬場は「長門馬場」が本来の名称であり、それが転訛して永田馬場になったので、永田氏との関連は薄い……との疑義を挟んでいます。しかし、今回はその真偽のほどについて追究しません。

半蔵門線の永田町駅から1駅渋谷寄りに「青山あおやま一丁目いっちょうめ駅」があります。港区青山(北青山1~3丁目、南青山1~7丁目)の地名は、同所に譜代大名青山家の屋敷があったことに由来することは広く知られています。この青山家の苗字の地は上野国吾妻あがつま青山あおやま村(現在の群馬県吾妻郡中之条なかのじょう町青山)とされていますから、これも青山氏が上野国吾妻郡から江戸に運んだ地名といえます。

譜代大名青山家由来の東京都港区の青山地区

青山家の本貫の地である群馬県吾妻郡中之条町青山

当欄ではこれまで、地名から苗字が生まれることが一般的であり、(一部の新田村などを除けば)苗字から地名が生じることはきわめて稀なこと、と繰り返し記してきました。しかし、半蔵門線の沿線には神田神保町・永田町・青山(北青山・南青山)など、苗字から生じた「稀な地名」が点在していることになります。

ところで、京都市伏見ふしみ区の桃山ももやま地区は、これまで述べてきたような、武家が本貫地の地名を運んできた例はさほど多くはないのですが、人名から生じた「稀な地名」の宝庫となっています。

桃山地区は豊臣秀吉が築いた伏見城下の一画にあたり、伏見城の廃絶後は農地(堀内ほりうち村)となりました。その頃に城跡に桃が植えられたことから桃山の地名が生じたといい、安土桃山時代の「桃山」もこのことに由来します。「日本歴史地名大系」の【堀内村】(伏見区)の項目は次のように記します。

伏見城下時代には大名屋敷が多く建並んでいた地であるが、伏見城廃絶後は大名屋敷も取払われ、田畑となりやがて村が成立した。伏見城外堀の内にあたるところから堀内村と名付けられたと伝える。現在(桃山・桃山町を冠して=筆者注)町名として残る井伊掃部・板倉周防・因幡・和泉・金森出雲・下野・駿河・丹下・丹後・永井久太郎・鍋島・二の丸・筒井伊賀・長岡越中・羽柴長吉・福島太夫・水野左近・毛利長門などの地名は、当地の城下町時代の様相をうかがわせて興味深い。

京都市伏見区の桃山地区は人名由来の地名の宝庫

石田三成(治部少輔)に由来する桃山町ももやまちょう治部少丸じぶしょうまる、本多忠政(美濃守)に由来する桃山町ももやまちょう美濃みのなど、武家の苗字(本貫地)ではなく、官途名に由来する町名も多いのですが、なかには最上氏(出羽国最上もがみ郡=現在の山形県中東部が苗字の地)に由来する桃山ももやま最上町もがみちょうや鍋島氏(肥前国佐賀郡鍋島なべしま村=現在の佐賀県佐賀市鍋島が苗字の地)に由来する桃山町ももやまちょう鍋島なべしまなど、遠く東北や九州から武家によって運ばれてきた地名も散見します。

人名から地名が生じることは稀、と繰り返してきましたが、意外に身近なところに人名由来の地名があるかもしれません。読者の方々もご近所にある人名由来地名を探し出し、機会があれば、その本貫地を訪ねてみてはいかがでしょうか。

(この稿終わり)