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第67回 旧国名、別称の法則(3)

2012年08月03日

前回の約束どおり、今回は「備前・備中・備後、あるいは筑前・筑後、豊前・豊後など、前・(中)・後で区分けされる国の場合、備州(びしゅう)、筑州(ちくしゅう)、豊州(ほうしゅう)など、総称としての別称はあるが、個々の国ごとの別称はない。」とした【法則3】の例外の検証を行います。

では、六十余州のうち【法則3】の対象となるような、かつては一つの国(地域)であったのが、のちに分離し、かつ分離後の国名(2字)表記で共通の字を用いている国はどのくらいあるのでしょうか?
以下、一つの国(地域)であったときの呼称(読みと表記)、分離後の国名2字表記、その総称としての別称と読み、という順序で列挙してみました。

◆コシノクニ《越国・高志国》→越前国・越中国・越後国《越州=えっしゅう》
◆タンバ(タニハ)ノクニ《丹波国》→丹波国・丹後国《丹州=たんしゅう》
◆キビノクニ《吉備国》→備前国・備中国・備後国《備州=びしゅう》
◆ツクシ(チクシ)ノクニ《筑紫国》→筑前国・筑後国《筑州=ちくしゅう》
◆ヒノクニ《肥国・火国》→肥前国・肥後国《肥州=ひしゅう》
◆トヨノクニ《豊国》→豊前国・豊後国《豊州=ほうしゅう》
◆フサノクニ《総国》→上総国・下総国《総州=そうしゅう》
◆ケ(ケヌ)ノクニ《毛国・毛野国》→上野国・下野国《総称としての別称は無い》

なお、ここにあげた諸国のうち、和銅6年(713)には備前国から美作国が分離しています。養老2年(718)には越前国から能登国が、上総国から安房国が分離しましたが、天平13年(741)に、能登国は越中国に、安房国は元の上総国に併合されます。しかし、天平宝字元年(757)安房国が上総国から、能登国が越中国からそれぞれ再分離して一国となりました。さらに、弘仁14年(823)には越前国から加賀国が分離、この加賀国の分離・建置をもって、のちの六十余州(66州+2島)が出揃うことになります。

さて、上記一覧で【法則3】の対象となるような地域は八つ(分離前の国の単位で数えれば8ヵ国)ということがわかります。また、【法則3】の例外が、毛国(毛野国)から分離した上野国・下野国ということも判明しました。

ところで、上野・下野と同様に分離後の国名2字表記を上・下で区別する国として上総・下総があります。そして、上総国・下総国の「総称としての別称」は共通する「総」の字を採用した「総州」です。
この流儀を上野国・下野国に適用すれば、両国の「総称としての別称」は「野州」となるはずです。しかし、「野州(やしゅう)」は下野国の別称(異称・略称)として用いられていて、これに対し上野国の別称には「上州(じょうしゅう)」が採用されています。

では【法則3】が適用される地域と適用されない地域ではどのような違いがあるのでしょうか?

法則が適用された吉備国の場合、その範囲は、現在の岡山県(備前国から分かれた美作国を旧吉備国と考えれば全域)から広島県の東部にかけてとなります。瀬戸内の温暖な気候と肥沃な土地に恵まれ、山海の資源も豊かな地域、これは分離後の備前・備中・備後にも共通する特徴といえるでしょう。
同様に法則が適用された越(高志)国をみてみましょう。越国の範囲は、現在の福井県東部(旧越前国)から石川県(旧加賀国・旧能登国)・富山県(旧越中国)・新潟県(旧越後国)にかけてです。越国の両端にあたる福井県敦賀市と新潟県村上市を比較すると、日本海に面していること、冬に雪が多いことなどを除くと、あまり共通項はないような気がします。

ところが、法則の適用されなかった上野国(現在の群馬県)・下野国(現在の栃木県)について検証してみると、両国ともに、国の北部から西部にかけて高山が連なり、南部から東部にかけては台地・平地が展開しています。この台地・平地の耕地は歴史的に畑作が優位であり、また、山地や高原では古くから多くの温泉が所在しています。何やら似たような国柄であることがわかります。

現在の視点で見ると共通項の少ない、越前・越中・越後を総称して「越州」という別称があるのに対して、(同様に現在の視点では)似たような風土と思われる上野と下野には「総称としての別称」が存在していません。
筆者は「総称としての別称」が存在するということは、分離後も(複数の国に)共通する特色がみられたのではないか、と想定したのですが、この命題は成立しないようです。

そこで、JK版「日本歴史地名大系」の該当する各国の国項目を参照して、「一つの国から複数国への分離時期」について調べてみました。その結果、毛野国(上野・下野)を除いた7ヵ国では、おおむね7世紀の中頃から7世紀末、下っても8世紀初頭までに分離していたことが判明します。

毛野国(上野・下野)の場合も、のちの令制国に相当する「国」としての成立は、7世紀代ですが、「国造本記」によれば、毛野国という一つの地域が上毛野(かみつけの)と下毛野(しもつけの)という2つの地域に分離したのは「仁徳天皇の時代」といいます。毛野国の分離が、他の7ヵ国の分離時期よりも、はるかに古い時代であったと認識されていたことがわかります。

先に、「現在の視点で見ると越前・越中・越後に共通項は少ないが、上野・下野では共通項が多い」旨を記しました。この見方は、まさに、「現在(21世紀)の視点」だったのだと思います。

国の別称(異称・略称)が成立・定着した時代=六十余州が出揃った823年から「菅家文草」が醍醐天皇に献上された900年までの頃の、しかも、別称を成立・定着させた人々=当時の畿内官人たちの目には、越前・越中・越後や上野・下野はどのような地域として映っていたのでしょうか?
たとえば、越前国は東大寺領を中心とした初期庄園が数多く成立した地域として著名です。越前も越中も越後も、9世紀の畿内官人たちは、ともに「フロンティアの大地」と把握していたのではないでしょうか。

吉備に目を転じれば、備前・備中・備後の3国に分離した後も(分離を670年代とする説や680-700年頃とする説など、諸説あるが)、「六国史」に3国の総称として「吉備」を使用している例が散見します。備前・備中・備後の3国が風土の相通う地域と感じられていたことがうかがえます。
これに対して毛野国の場合は、分離後かなりの年月を経ており、上野・下野それぞれが独自の風土を培い、9世紀の畿内官人たちにとって、峻別すべき2つの地域と認識されていたのではないでしょうか。

このことが、上野国と下野国に「総称としての別称」が存在しない……【法則3】の例外となった理由、と筆者は推測する次第です。

(この稿終わり)

独自の風土を培ってきた上野国(群馬県、左側)と下野国(栃木県、右側)

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