徳川5代将軍綱吉の生母桂昌院の発願によって開かれた護国寺(現真言宗豊山派大本山)は、東京都文京区の北西端、南をかつての
現在の護国寺の東側、江戸時代には護国寺(護国寺・護持院)の境内だった丘陵地には
境内はさほど広くなく、あまり目立たない小社なのですが、参道の入口には石鳥居が建てられており、氏子たちの尊崇を集めてきたことをうかがわせます。
この吹上稲荷神社の由緒・変遷については、資料によって微妙な違いがみられます。寺院・神社の由来に諸説があるのは「吹上稲荷神社」に限ったことではないのですが、今回(および次回)は同社の変遷について探ってみたいと思います。
文京区大塚5丁目に鎮座する「吹上稲荷神社」。西方の杜は豊島岡墓地。
まず、文京区のホーム・ページに記載される吹上稲荷神社の由緒をまとめますと、以下のようになります。
元和8年(1622)に2代将軍徳川秀忠が日光山から稲荷の神体を賜り、江戸城内吹上御殿内に祀って「東稲荷宮」と称したのに始まる。
5代綱吉のころ、江戸城内から一ツ橋に遷し、その後、水戸徳川家の分家松平大学頭(奥州守山藩主)が拝領し、邸内(現在の「教育の森公園」一帯)に移した。
宝暦元年(1751)には大塚(小石川村の内)の鎮守として松平家から拝受し、
その後、護国寺、薬師寺等に移遷し、明治45年(1912)に現在地(当時は小石川区大塚坂下町、現在の大塚5丁目)に移った。
創建の経緯について、現在、神社境内に掲げられている「吹上稲荷神社略記」は、おおむね、文京区のホーム・ページと同じことを記しています。しかし、宝暦元年(1751)の遷座地は単に現在の小石川4丁目とし、善仁寺境内と明記はしていません。また、その後の遷座地について、護国寺月光殿から大塚上町、次いで大塚仲町に移り、明治45年に大塚坂下町(現在地)に移ったと記し、文京区のホーム・ページとは若干の相違がみられます。
かつての守山藩松平家(大学頭家)の邸地は、現在、「教育の森公園」などとなっている。
次に、昭和10年(1935)に当時の小石川区役所(小石川区は昭和22年に本郷区と合併して現在の文京区が誕生)が発行した「小石川区史」の記述をみてみましょう。
創建・由緒は不明であるが、江戸末期の切絵図では、今(区史発行時)の大塚窪町付近(現在の大塚3丁目から小石川5丁目あたり)を吹上と記していること、また、(江戸時代後期成立の)「小石川志料」には
その後、護国寺境内に移り、明治5年(1872)に現在地(大塚坂下町)に移った、としています。また、(区史発行時)の氏子は竹早町・大塚窪町・大塚町・大塚上町・大塚仲町・大塚坂下町の5町と記します。
さらに、もう一つ、東京市が編纂して明治40年(1907)に刊行された「東京案内」の記事をみてみましょう。
当時の大塚仲町(現在の大塚3・4丁目あたり)に所在する。創建年代は不詳であるが、大塚の総鎮守で、吹上とよぶ田圃に鎮座していた。元禄4年(1691)に「外」に移り、次いで護国寺境内に転じ、明治5年(1872)に現在地(大塚仲町)に遷座した。
いかがでしょうか。それぞれの資料によって、創建由緒はもちろんのこと、近代以降の変転についても微妙な相違点がみえました。次回は判明可能なところだけでも「吹上稲荷神社」の「謎」を解き明かそうと思います。
(この稿続く)