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第139回 吹上稲荷神社の不思議(1)

2018年02月02日

徳川5代将軍綱吉の生母桂昌院の発願によって開かれた護国寺(現真言宗豊山派大本山)は、東京都文京区の北西端、南をかつての弦巻つるまき川、東を同じく水窪みずくぼ川が刻んだ谷に画される台地上に位置します。

現在の護国寺の東側、江戸時代には護国寺(護国寺・護持院)の境内だった丘陵地には豊島岡としまがおか墓地(皇族の墓所)や大塚先儒墓所(儒者の葬地)などが設けられており、そうした一画に吹上ふきあげ稲荷神社も鎮座しています。

境内はさほど広くなく、あまり目立たない小社なのですが、参道の入口には石鳥居が建てられており、氏子たちの尊崇を集めてきたことをうかがわせます。

この吹上稲荷神社の由緒・変遷については、資料によって微妙な違いがみられます。寺院・神社の由来に諸説があるのは「吹上稲荷神社」に限ったことではないのですが、今回(および次回)は同社の変遷について探ってみたいと思います。

文京区大塚5丁目に鎮座する「吹上稲荷神社」。西方の杜は豊島岡墓地。

まず、文京区のホーム・ページに記載される吹上稲荷神社の由緒をまとめますと、以下のようになります。

 元和8年(1622)に2代将軍徳川秀忠が日光山から稲荷の神体を賜り、江戸城内吹上御殿内に祀って「東稲荷宮」と称したのに始まる。
5代綱吉のころ、江戸城内から一ツ橋に遷し、その後、水戸徳川家の分家松平大学頭(奥州守山藩主)が拝領し、邸内(現在の「教育の森公園」一帯)に移した。
 宝暦元年(1751)には大塚(小石川村の内)の鎮守として松平家から拝受し、善仁ぜんにん寺(真宗大谷派。現在の小石川4丁目)に移し、今日の社名(吹上稲荷神社)に改名した。なお、小石川4丁目にある「吹上坂」はこれに由来する。
 その後、護国寺、薬師寺等に移遷し、明治45年(1912)に現在地(当時は小石川区大塚坂下町、現在の大塚5丁目)に移った。

創建の経緯について、現在、神社境内に掲げられている「吹上稲荷神社略記」は、おおむね、文京区のホーム・ページと同じことを記しています。しかし、宝暦元年(1751)の遷座地は単に現在の小石川4丁目とし、善仁寺境内と明記はしていません。また、その後の遷座地について、護国寺月光殿から大塚上町、次いで大塚仲町に移り、明治45年に大塚坂下町(現在地)に移ったと記し、文京区のホーム・ページとは若干の相違がみられます。

かつての守山藩松平家(大学頭家)の邸地は、現在、「教育の森公園」などとなっている。

次に、昭和10年(1935)に当時の小石川区役所(小石川区は昭和22年に本郷区と合併して現在の文京区が誕生)が発行した「小石川区史」の記述をみてみましょう。

 創建・由緒は不明であるが、江戸末期の切絵図では、今(区史発行時)の大塚窪町付近(現在の大塚3丁目から小石川5丁目あたり)を吹上と記していること、また、(江戸時代後期成立の)「小石川志料」には智香ちこう寺(浄土宗。かつては現在の小石川5丁目に所在。現在は大塚3丁目に移転)境内に「吹上稲荷大明神」があったことがみえているから、この「吹上稲荷大明神」が今の吹上稲荷神社の起こりであろう、と推定。
 その後、護国寺境内に移り、明治5年(1872)に現在地(大塚坂下町)に移った、としています。また、(区史発行時)の氏子は竹早町・大塚窪町・大塚町・大塚上町・大塚仲町・大塚坂下町の5町と記します。

さらに、もう一つ、東京市が編纂して明治40年(1907)に刊行された「東京案内」の記事をみてみましょう。

 当時の大塚仲町(現在の大塚3・4丁目あたり)に所在する。創建年代は不詳であるが、大塚の総鎮守で、吹上とよぶ田圃に鎮座していた。元禄4年(1691)に「外」に移り、次いで護国寺境内に転じ、明治5年(1872)に現在地(大塚仲町)に遷座した。

いかがでしょうか。それぞれの資料によって、創建由緒はもちろんのこと、近代以降の変転についても微妙な相違点がみえました。次回は判明可能なところだけでも「吹上稲荷神社」の「謎」を解き明かそうと思います。

(この稿続く)