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第105回 加古川の戦(2)

2015年09月18日

第1ラウンド

いよいよ「加古川の戦」です。はじめの対戦相手は武庫川むこがわ。ただし、その前に、国土交通省近畿地方整備局河川部のホームページに掲載された加古川の概略をみておきましょう。

 加古川は、その源を兵庫県朝来あさご山東町さんとうちょうと丹波市青垣町あおがきちょうの境界にある粟鹿あわが山(標高962m)に発し、丹波市山南町さんなんちょうにおいて篠山ささやま川を合わせ、西脇市において杉原すぎはら川と野間のま川を、小野市において東条とうじょう川、万願寺まんがんじ川を合わせ、さらに三木市において美嚢みの川を合わせながら播州ばんしゅう平野を南下し、加古川市尾上町おのえちょう、高砂市高砂町たかさごちょう向島町むこうじまちょうで瀬戸内海播磨灘へと注ぐ幹川流路延長96km、流域面積1,730km2の一級河川です。

 加古川流域は、兵庫県の加古川市、小野市、西脇市、篠山市等の主要都市をはじめとする11市3町からなり、流域市町は上流部の丹波地域、中・下流部の東播磨地域に大別することができ、この地域の社会、経済、文化の基盤をなしています。

同ホームページには、あわせて加古川の流域図も掲載されています。この流域図によると、加古川の本流域は、針葉樹のような縦長の二等辺三角形をしています。この縦長三角形の東側に、支流篠山川の流域(東西に細長い篠山盆地)が天狗の鼻のように出っ張って、針葉樹形のような対称性を崩しています。じつは、この付け足りのような篠山川が、古くは武庫川の上流部だったというのです。

争奪対象となった篠山川が流れる【篠山盆地】について、ジャパンナレッジ「日本大百科全書(ニッポニカ)」は次のように記します。

兵庫県東部、丹波(たんば)地方にある盆地。東西16キロメートル、南北4キロメートルの構造盆地で、南部は加古川支流の篠山川流域である。盆地底は2、3段の段丘と沖積地からなり、多くの小丘が点在する。中生代の湖水堆積物(たいせきぶつ)が隆起し削り残された所である。開発は縄文時代に始まる。盆地中西部は湿田多く県下最大の早場米地帯で、ほかにヤマノイモ、クリなどを特産する。

同じく「日本大百科全書(ニッポニカ)」は、対戦相手の【武庫川】について次のように記します。

兵庫県東部を南流する川。延長66キロメートル。丹波(たんば)高地に源を発し、青野川、羽束(はつか)川、有馬(ありま)川、八多(はた)川などを合流して宝塚市に流れ出て、さらに尼崎(あまがさき)市と西宮(にしのみや)市の境界を流れて大阪湾に注ぐ。上流の三田(さんだ)市では三田米で知られる清酒用米の水田地帯を潤し、羽束川の水は、神戸市上水道の千苅(せんがり)水源池の用水となっている。下流では武庫平野の水田灌漑(かんがい)用水、臨海工業地帯用水となっている。

では、篠山川(かつては武庫川の上流域)は、どのような経緯で加古川の流域となったのでしょうか。「武庫川散歩」(兵庫県立人と自然の博物館刊)に所載の「武庫川のふしぎな地形と地質」(加藤茂弘)などによれば、概略は以下のようになります。

○おおよそ3万年くらい前まで、篠山盆地を西流した古武庫川(現在の篠山川の中・上流部)は、現在のJR福知山線篠山口駅あたりから流路を南に変え、同線に沿うように南下、南矢代みなみやしろ駅付近で同線から離れ、東南方の篠山市当野とうの地区の谷間(現在の武庫川最上流部の流路)を抜け、武庫川本流となって瀬戸内海に注いでいた。
○3万年くらい前から、当野付近の山地などから大量の土砂が供給された結果、武庫川(古武庫川)は堰き止められ、当野あたりから篠山盆地の低地部一帯にかけては湖(古篠山湖)や湿地となった。
○その頃、篠山盆地西方の山地(現在の篠山・丹波市境付近の山地)を水源としていた加古川の支流(古篠山川)は谷頭侵食を進め、一方、古武庫川の(堆積による)河床高度の上昇も進んで、古篠山川分水界との高度差は減少を続ける。
○約1万年前より以前に、(おそらくは大洪水によって)加古川支流の古篠山川は、まずは宮田みやだ川(篠山盆地の西部を南下して、現在の篠山川右岸に入る支流)を争奪、次いで古武庫川上流域を争奪した。

かつての武庫川上流部は、現在の篠山口駅、南矢代駅、当野と通って、三田盆地方面へ南下していた。

篠山川が加古川に争奪されると、かつての篠山川流路であった(現在の篠山口駅から南矢代駅にかけての)谷底平野を分水界として、北側が加古川(篠山川)、南側は武庫川の流域となりました。分水界は一般的に、山の稜線などで区切られますが、河川争奪が行われた場合、かつての流路であった谷底平野のどこかが分水界となります。こうした平地(谷底平野)にできた分水界を谷中こくちゅう分水界とよびます。

近代に入り、山に囲まれた篠山盆地と三田・宝塚・尼崎方面を結ぶ舟運(高瀬舟)が企画され、明治7年(1874)には篠山川と武庫川を繋ぐ運河が開削されました。舟運自体は数年で廃止され、運河(当時の豊岡県の役人田中光義と松島潜の頭文字をとって田松川と名付けられました)も荒廃しましたが、その後、用水路として復活・整備されました。現在、田松川の第一水門と第二水門の間には、篠山川と武庫川の川中分水界があり、この川中分水界は田松川の周辺耕地にみられる谷中分水界より、若干、北に寄っているといいます。

現在の篠山口駅から南東方500メートルほどの田松川の川中が、川中分水界といいます。

(この稿続く)