先回は「葦浦・玉浦」からの距離等に着目し、「日本書紀」のヤマトタケル東征説話にみえる、蝦夷の賊首や嶋津神・国津神たちが集結した「竹水門」の候補地に、現在の福島県いわき市南部の鮫川河口を推奨しました。
今回は「日高見国」をキーワードとした「竹水門」の候補地探しです。竹水門に集結した蝦夷の賊首や嶋津神・国津神たちを平定したヤマトタケルは、「日高見国」から西南方の常陸国を経て、甲斐国の酒折宮に着きます。「日本書紀」が「蝦夷既に平けて、日高見国より還りて、西南、常陸を歴て、甲斐国に至りて、酒折宮に居します」と記すところです。
ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」では、「日高見国」の語釈の1番目が「おおやまとひたかみのくに(大倭日高見国)」への送り項目となっており、日本国の美称「大倭日高見国」(太陽が高くかがやく国の意)に同じということになります。次に、「常陸国(茨城県)信太郡の異称」であるとし、「常陸風土記逸文」(釈日本紀所載)の「筑波・茨城の郡の七百戸を分ちて信太(しだ)の郡を置けり。此の地は、本、日高見国(ひたかみのくに)なり」の用例を示します。そして、3番目に「古代、蝦夷(えみし)のいた陸奥(みちのく)国の一部の地名。今の北上川下流域という」をあげます。
1番目の「日本国の美称」からは「竹水門」の候補地選びに役立つヒントは得られません。3番目の「今の北上川下流域」は、従来いわれていた宮城県宮城郡七ヶ浜町の湊浜 地区(北上川の旧河口部から南西約25キロにあたる)とする見解を補強することになります。
しかし、筆者が着目するのは2番目の「常陸国信太郡」が「日高見国」にあたる、という語釈です。常陸国信太郡は、霞ヶ浦の南西側沿岸部を郡域としていましたが、明治29年(1896)に河内郡と合併して茨城県稲敷郡となりました。ほぼ、現在の茨城県土浦市南西部、牛久市東部、稲敷郡阿見町および美浦村の全域、稲敷市の北西部にあたります。
ところで、古く(少なくとも弥生時代頃までの)霞ヶ浦は、近在の北浦や手賀沼・印旛沼・牛久沼といった湖沼群とひと続きで太平洋に開口し、「香取海」(「流れ海」「うちのうみ」などとも)とよぶ内海となっていました。その後、徐々に湖沼化が進行しますが、室町時代頃までは、まだまだ「海」の面影が残っていたといいます。
そうしますと、ヤマトタケル東征の頃、信太郡は「海」に面していたということになります。たびたびとなりますが、ヤマトタケルが「竹水門」に至る経路を「日本書紀」で確認しますと、「海路より葦浦に廻る。横に玉浦に渡りて、蝦夷の境に至る」とあります。
先回、「玉浦」を九十九里浜一帯にあてる説が有力だ、と述べました。しかし、「横に玉浦に渡り」の文言に着目してみましょう。「横に」は、「横方向に」の意ととれますから、それまで、海路をおおむね東へ東へと進んできたヤマトタケルが、(それまでの進路方向からみると)直角方向にあたる香取海に向かって進路を替えたとすれば、まさしく「よこしまに」の表現がピッタリではないでしょうか。この場合、霞ヶ浦を挟んで信太郡の北西対岸にあたる常陸国行方郡(のちに「なめがた」)の中世地名「玉作郷」(霞ヶ浦に面し、江戸時代には玉造村。現在の行方市玉造地区)あたりが「玉浦」の有力候補地の一つになると思います。
蛇足となりますが、「常陸国風土記」は他の風土記と比べると、ヤマトタケル(同書では「倭武天皇」と表記されます)にまつわる逸話が頻出します。なかでも、「玉作郷」が含まれる行方郡における足跡が顕著です。
ここでまた、少し脇道にそれます。「常陸国風土記」の信太郡の項には「乗浜の里の東に浮島の村あり。長さ二千歩、広さ四百歩なり。四方 絶海にして、山と野と交錯り、戸は一十五烟、田は七八町余なり。居める百姓は塩を火きて業と為す」という記述があります。この「乗浜」は「和名抄」にみえる信太郡乗浜郷にあてられ、浮島は現在の稲敷市浮島地区に比定されています。霞ヶ浦が内海で「香取海」とよばれていた頃、海浜には多くの洲(中洲=島)があり、その一つが「浮島」だったのではないか、との仮説も成り立つでしょう。そうしますと、「日本書紀」に「蝦夷の賊首、嶋津神・国津神等、竹水門に屯みて距かむとす」とみえる「嶋津神」を、浮島など中洲を単位とする一族の族長とみることも可能ではないでしょうか。
またまた蛇足となりますが、現在の稲敷市南東部から千葉県香取市北部にかけての旧16か村には「十六島」の通称がありました。これら16か村は旧香取海両岸の低地を占め、戦国末期から江戸時代初期にかけて開発された新田地帯ですが、「島」の字が付く村名が多いため「十六島」とよばれました。中洲状の地を開発したため、村名に「島」の字が付く場合が多かったと思われます。
さらに蛇足を続けます。先の「あづまはや」の連載で、日高見国から酒折宮に入ったヤマトタケルは、「新治、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる」と詠じ、侍者のひとりが「かが(日日)なべて、夜には九夜、日には十日を」と返したというエピソードについて記しました。じつは、新治郡は香取海を挟んで信太郡の北に位置し、新治郡の南西に筑波郡が続いています。「新治、筑波を過ぎて」という詞がピタリとはまります。日高見国=信太郡がより堅固なものとなってきました。
状況証拠は大分揃いました。さて、いよいよ「竹水門」です。現在の稲敷郡江見町(旧信太郡)の中央部に「竹来」地区があります。「常陸国風土記」にみえる信太郡「高来の里」、「和名抄」の信太郡高来郷の遺称地とされ、現在は霞ヶ浦から1キロほど内陸側に位置します。しかし、標高は低く、かつて霞ヶ浦が香取海とよばれていた頃に海浜部であっても不思議ではない地形といえます。
「竹水門」の一押し候補地。茨城県稲敷郡江見町竹来地区
「竹水門」=茨城県稲敷郡江見町「竹来」地区説は非の打ち所がない仮説のように思われますが、いかがでしょうか? しかし、じつは、この説には決定的な欠陥があるのです。それは、「日本書紀」の文脈において、ヤマトタケルの竹水門における逸話は、東山道における出来事として描かれている、ということです。
もし、これが「古事記」に描かれているのならば、「竹水門」=「竹来」は極めて有力な仮説、といえるかもしれません。しかし、ヤマトタケルが東山道の要衝、碓日嶺(碓氷峠)で「あづまはや」と歎く前段の物語ですから、「竹水門」での出来事は、のちの東山道所属の国々で起こったことと考えなければならないのです。
仮に、ヤマトタケルの「竹水門」での説話の元となった出来事が、江見町竹来地区で起こっていたならば、それは、本来、ヤマト王権の東海道方面における進攻を記述した「古事記」(景行天皇段)に記されるべき事件のはずです。しかし、実際には東山道方面からの東国侵攻をも強調する「日本書紀」に掲載された物語なのです。
「古事記」「日本書紀」のこれまでの研究蓄積は膨大なものとなります。ですから、従来の定説である「竹水門」=宮城県宮城郡七ヶ浜町湊浜地区説について、ここまで検証してきた程度で葬り去ることはできないでしょう。しかし、一方で、物語に登場する他の地名群の広がりから極端に逸脱した「湊浜」に対する違和感・唐突感を、筆者はなかなか拭い去ることができません。本居宣長の言を借りれば「師の説になづまざる事」、「竹水門」の所在地について、さまざまな角度から改めて真摯な検討がなされることを望んでやみません。
(この稿終わり)