東京23区内に住んでいる人、あるいは勤務先がある人に「〈大塚〉という地名は何区にありますか?」と尋ねると、大半の人々(一部区域の人々は除く)は〈豊島区〉と答えるのではないでしょうか。実際、豊島区には〈北大塚〉〈南大塚〉という町名がありますし、またJR山手線の大塚駅も所在します。しかし、〈大塚〉という地名は文京区が本家本元で、もちろん〈文京区大塚〉という町名も存在します。
文京区大塚の一帯は江戸時代初期には
ところで、小名〈大塚〉の地名由来について、「御府内備考」に引く「改撰江戸志」は大略次のように述べています。
俚言によれば、大塚通(現在の春日通りに相当)の南裏、小普請神尾豊後守組の森川鉾太郎の屋敷地内に高さ五尺ほどの塚があり、この塚の上には朽ちた榎が同じく五尺ほど残されていて、この塚が〈大塚〉の由来という。塚の脇には稲荷が祀られ、これは大塚稲荷とよんだという。
江戸時代の森川鉾太郎の屋敷地は、現在の
昭和41年(1966)、いずれも江戸時代の町名に淵源をもつ文京区大塚町・大塚仲町・大塚上町・大塚坂下町・大塚窪町ほかの町々を合わせて、新しい住居表示に基づいた大塚(1~6丁目)が誕生します。つまり、文京区大塚は〈古墳に由来する地名〉の可能性を秘めている、といえるでしょう。
一方、豊島区北大塚・南大塚の一帯は江戸時代には巣鴨村のうちでした。明治時代に入っても、東京近郊の農村地帯でしたが、明治22年に市制町村制が施行された際、現在の北大塚・南大塚地区の東側は北豊島郡巣鴨町(江戸時代の巣鴨町=現在のJR山手線巣鴨駅付近を中心に旧中山道に沿った町場=の系譜を引く)に編入され、西・北側はそのまま北豊島郡巣鴨村となりました(巣鴨村は大正7年に町制を施行して西巣鴨町となります)。
明治36年には日本鉄道の豊島線(現JR山手線)の目白(現豊島区)~田端(現北区)間が開通、巣鴨村内に池袋・大塚の2駅、巣鴨町内には巣鴨駅が設けられました。池袋の駅名は当時の駅所在地である巣鴨村大字池袋(江戸時代の池袋村)から採用したと思われます。これを大塚(駅)に当てはめますと、駅予定地は巣鴨村大字巣鴨ですので巣鴨駅となり、巣鴨町の巣鴨駅と重複してしまいます。
その頃、(大塚)駅予定地から最も至便な繁華街(市街化した地域)は(文京区)大塚地区でしたから、これを駅名に採用し、2つの巣鴨駅を回避したのではないか、と筆者は推測します(仮に、巣鴨村町制施行後の西巣鴨町時代に豊島線が開通していたら、西巣鴨駅となっていたと思われます。その場合、現都営三田線の西巣鴨駅は北巣鴨駅となった……?)。
開業直後の大塚駅周辺に数軒の飲食店がありましたが、一日の乗降客数は10~50人くらいであり、飲食店の客ももっぱら近郷の農民たちであったといいます。しかし、大正時代に入ると大塚駅周辺にも都市化の波が押し寄せ、大正中期には料理屋や芸妓屋が集中する花街が形成され、大正13年(1924)には駅南東方の7千余坪(巣鴨町地内)での
大塚三業地の賑わいは第二次世界大戦後も衰えず、昭和40年代までその繁栄を維持していました。その後は衰退の一途をたどりますが、往時の殷賑振りには遠く及ばないものの、現在も三業組合事務所(検番)の営業は続いています。
昭和45年、それまで豊島区巣鴨5~7丁目、西巣鴨2・3丁目であった大塚駅周辺地域(三業地を含む)を、山手線の線路を境界として北側を北大塚(1~3丁目)、南側を南大塚(1~3丁目)という新しい住居表示にまとめ、正式な町名としての豊島区〈大塚〉が誕生します。
文京区大塚地区が近代以降、(江戸時代以来の商業地域は存続していたものの)文教地区、住宅街として発展したのに対し、豊島区の大塚地区は大塚駅の開設を契機として都市近郊農村から商業・歓楽地区へと急速な変貌を遂げ、現在では東京都の〈大塚〉といえば、本家である文京区大塚を差し置いて真っ先にその名を挙げられる地域になった、といえるでしょう。
23区内にはもう一つ〈大塚〉地名があります。大田区の
これまでの経緯をみますと、23区内でもっとも著名な〈大塚〉は、古墳に由来する地名であることがはっきりしている大田区の〈大塚〉でも、古墳由来の可能性が考えられる文京区の〈大塚〉でもなく、(完全に無関係とはいえないものの)もっとも古墳との関係は薄い豊島区の〈大塚〉という皮肉な結論となりました。
次回はJK版「日本歴史地名大系」の検索機能を活用し、全国の〈大塚〉地名の傾向性や古墳との関連性の濃淡について探ってみたいと思います。
(この稿続く)