難読地名~鳥獣編の2回目です。今回は牛の字、馬の字が入った難読地名を取り上げます。その前にちょっと寄り道。鎌倉時代の末期、延慶3年(1310)の年紀がみえる『国牛十図』に「馬は東関をもちてさきとし、牛は西国を以てもとゝす」と記されるように、古くから「東は馬、西は牛」と言い習わされてきました。こうした傾向は地名の広がりや分布にもみられるのでしょうか? JK版日本歴史地名大系の検索・分布図・グラフ機能を利用して調べてみました。
まず見出し検索+分布図でチェックすると、「牛」の見出し項目は東京都の110件が突出、ほかは偏りのない分布傾向を示しています。東京都の突出は、近世の江戸に「牛込××町」など牛込(うしごめ)の地名を冠した町が百余町あったことによるもので、このことを差し引いてみると、ほんとうに満遍なく分布しているといってよいでしょう。一方、「馬」の見出し項目は東京都52件、愛知県43件、長崎県・福岡県各39件、長野県37件がベスト5、少ない方は山梨4件、沖縄5件、宮崎県6件、香川県7件、北海道8件の順で、都道府県ごとのバラツキはありますが、東西の偏差はないようです。なお東京都52件のうち23件は大伝馬町・小伝馬町・南伝馬町など、伝馬役を負担した江戸の町名です。また「馬」の字が付く見出し項目は全国で996件ヒットしますが、このうち269件は「馬場」が付く項目でした。
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牛の分布図: (見出し) | 馬の分布図: (見出し) | 牛の集計表: (見出し) | 馬の集計表: (見出し) |
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今度は全文検索でチェックします。「牛」は21,634件、「馬」は50,110件がヒット、分布図でみると「馬」は見出し検索の場合と同様、都道府県ごとに格差はあるものの、東西の偏差はみられません。これに対して「牛」は明らかに西日本に偏った分布を示しました。
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牛の分布図: (全文) | 馬の分布図: (全文) |
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さて、いよいよ本題に入ります。まずは「牛」の付く地名初級編から。
(問題文をクリックすると答えがご覧いただけます)
⇒妹背牛はモセウシ、小牛田はコゴタが正解。
ともに古くから知られた自治体名です(妹背牛町・小牛田町。ただし小牛田町は平成18年に南郷町と合併して美里町となりました)。加えて妹背牛には女子高校バレーボールの強豪校(妹背牛商業高校)、小牛田にはJR東北本線と同陸羽東線・石巻線の分岐駅(小牛田駅)があることから、ともに読み方は難しいのですが、地名は広く全国に知られています。
次は中級編です。
⇒ナイジョウシ
弘前市中心街から少し北東方に離れたところに位置し、岩木川水系の平(ひら)川と土淵(つちぶち)川が当地で合流。地内にはJR奥羽本線の撫牛子駅があります。
⇒エロス
安比(あっぴ)高原を水源とする安比川が貫流する二戸市の南西部にあります。旧浄法寺(じょうほうじ)町域の中心部からやや北寄り、安比川支流の岡本(おかもと)川の流域です。
⇒ウシキ
長良川と揖斐(いび)川に挟まれた瑞穂(みずほ)市の、旧穂積(ほづみ)町域南部に位置します。当地は長良川に注ぐ五六(ごろく)川と犀(さい)川に挟まれた低湿地にあり、周辺地域と輪中(牛牧輪中)を形成して、水害と闘ってきました。
⇒ムロジ
舞鶴市の北東部にあります。舞鶴湾の北を画する大浦(おおうら)半島の付け根に近く、同半島の南部を流れて舞鶴湾に注ぐ河辺(かわなべ)川の中流域に位置します。
⇒サメガイチョウ
堀川通の東、六条通の北側を占め、西本願寺の北東方に位置する町。町名は町内西側にあった井戸、佐女牛井に由来します。同井は京師七井の一つに数えられ、醒ヶ井などとも記されました。
「牛」の巻の最後は上級編です。
⇒コットイ
下関市の北西部、旧豊北(ほうほく)町域の神田(かんだ)地区にあります。響灘に面する特牛湊(特牛港)は江戸時代末期以降、廻船の風待湊として繁栄しました。また神田地区にはJR山陰本線の特牛駅があります。なお「特牛」という地名、一般的には難読地名上級編といってよいと思いますが、先述の特牛駅は「難読駅名」として頻繁にクイズ問題に取り上げられており、鉄道ファンにとっては易しい問題だったかもしれません。
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特牛湊 |
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響灘に面する特牛湊。山陰本線の特牛駅も近い
次は「馬」の付く地名初級編です。
「馬寄」はウマヨセと読んで、『日本国語大辞典』(小学館)に「農村の行事。初夏、農家から馬を集めて走らせ、評価するもの」とあります。古く馬牧などで、放牧していた馬を集めたところを馬寄場などといい、このことに由来する馬寄の地名(ウマヨセのほかにマヨセなどの読みもあります)は全国にみられます。
⇒それぞれカミマイソウ・シモマイソウ・ヒガシマイソウと読みます。
古くマイソとも読みましたが(内務省地理局編「地名索引」明治18年刊など)、現在はマイソウといっています。門司区の「馬寄」が上述の農村行事の馬寄、あるいは馬牧の馬寄場に由来する地名か否かは不明ですが、一帯は江戸時代には馬寄(まいそ)村・馬寄新町(まいそしんまち)村とよばれていました。
次は中級編です。
⇒ニシモナイ
秋田県の南部、鳥海山の北東麓を占める羽後町にあります。雄物川の支流、西馬音内川の流域に位置し、古くから交通の要衝として栄えました。
⇒モウチ
加須(かぞ)市市街の西方に位置します。一帯は中世には馬内郷、近世には馬内村とよばれていました。
⇒マケ
高月(たかつき)町の東南部に位置。山田山の南西麓、馬上川ともよぶ高時(たかとき)川の左岸を占め、北部には北馬上(きたまけ)集落があります。賤ヶ岳の戦いの折、羽柴秀吉は美濃から木之本(きのもと)へ向かう途次に当地を通り、「キタマケ」の地名を聞き、「北(越前北庄を本拠とする柴田勝家を指す)が負け」に通じると喜んだとの故事が伝わります。
⇒ミヌメ
神戸市灘(なだ)区岩屋(いわや)地区の海岸地域を指した地名で、歌枕。地内には敏馬神社が所在します。現在、岩屋地区の地先は埋め立てられ、摩耶埠頭になっていますが、『万葉集』には敏馬、敏馬崎、敏馬浦を詠んだ歌が多く収められ、柿本人麻呂には「珠藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に舟近づきぬ」(『万葉集』巻三)の詠歌があります。
次は上級編です
唐津市の北西部(旧鎮西町域)、東松浦半島の北西方沖合に浮かぶ「馬渡島」は何と読みますか?
福井県の真中で、日本海に向かって北に突き出す敦賀半島。同半島の東側の敦賀市縄間(のうま)地区と、西側の美浜町竹波地区の境に位置する馬背峠は何と読みますか?
⇒マダラジマ
島の北方は壱岐水道を挟んで長崎県壱岐島に対します。「大陸から最初に馬が渡って来た島なので、馬渡島と書いた」、あるいは「古くは斑島と書いたが、美濃馬渡の住人本馬八郎義俊が流罪となり、この島に土着して斑を馬渡に書き改めた」などの地名由来伝承が残されています。
⇒マジョウトウゲ
敦賀半島の中央部にそびえる西方が岳(さいほうがたけ・標高764.1メートル)とその南方の三内山(521.6メートル)との鞍部を越える峠で、標高は約180メートル。古く敦賀半島の東側は越前国、西側は若狭国に属し、馬背峠は国境の峠でもありました。
最後におまけの問題。「牛」と「馬」の両方の字が入る難読地名です。岩手県の名峰、早池峰(はやちね)山の前山にあたる薬師岳を水源とし、遠野盆地を目指して南へ流れ下る猿ヶ石川、この猿ヶ石川の流域山間に遠野市附馬牛地区があります。この「附馬牛」は何と読みますか?
⇒ツキモウシ(「ツクモウシ」ともいいます)
現在の青森県東半部から岩手県北部にかけての地域は、古く陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡とよばれました。糠部産の馬は名声が高く、「糠部の駿馬」と通称されました。現在の遠野市域はかつて閉伊(へい)郡とよばれた地域で、糠部郡に南接していた閉伊郡も古くから馬産が盛んなところでした。附馬牛地内の稲荷神社には槻の巨木があり、この木の下に多くの牛馬を放牧することができたことが、附馬牛の地名由来との伝承があります。
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附馬牛 |
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名馬の産地として知られた遠野市附馬牛地区