岡山県の南西部に位置する総社市は、県都岡山市の西、美観地区で知られる倉敷市の北にあたり、市域を北西-南東方に
総社市の市名由来は、明治8年(1875)に、それまでの賀陽(古くは「かや」と読んだ)郡
その後の分村・合併を経て、明治29年に町制施行、昭和29年(1954)に総社町と周辺諸村が合併して市制を施行し、総社市が誕生。平成の大合併で
総社市の市名由来となった「総社」について、ジャパンナレッジ「日本大百科全書(ニッポニカ)」は「そうしゃ」の読みで立項し、「そうじゃ」ともいい「惣社」とも書くとして、
一定の地域内に鎮座している神社の祭神を勧請(かんじょう)して、特定の一神社に合祀(ごうし)し、その地域の集約的な祭祀を行うものとされる神社。一郡、一郷の総社もあるが、一般的には一国の総社をいう
と記述しています。また、ジャパンナレッジ「世界大百科事典」は「そうじゃ」の読みで立項し、次のように記します。
多くの神社の祭神を,一所に勧請(かんじよう)しまつった神社のこと。古代国郡制の国で,その国内神社祭神を一所に勧請し,まつった諸国総社のほか,寺院内に設けられた総社,また有力氏族の邸内に設けられた総社などがある。(中略)諸国の総社はそのほとんどが,国衙に近い地に存在することから,古代律令制時代には国司は国内の国幣社ほかいくつかの神社をまつる義務をもっていたが,律令体制のゆるみとともに,その国内各社に行かず,便宜国衙に近い所に諸社をあわせ勧請し,そこで祭祀したことに始まるとする説と,逆に不安な世情のなかで,諸社にあわせ祈願するため設けたとみる説などがある。(後略)
総社市の総社は、旧備中国内324社の分霊を勧請・合祀しており、現在は「備中国総社宮」と号しています(宗教法人名は総社)。その建立の経緯については、国司の国内諸社巡拝の煩を避けるためとか、国衙の祭祀行事の円滑化を図るためとか、諸説があるようです。
備中国総社宮の東方約2キロメートルには備中国府跡の推定地があり、国府推定地の南方約1.7キロメートルには備中国分寺跡(跡地に建つ国分寺は、備中国分寺の法灯を継ぐとされ、五重塔で知られます)があって、一帯は古代備中国の中心地であったことがうかがえます。
古代備中の中心地であった総社市の「総社」一帯
ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」で「総社」「総社神社」および「惣社」「惣社神社」の見出し項目(完全一致)を検索すると、「総社」は備中国総社を除いて5件、「総社神社」も5件、「惣社」は1件ヒットしました(「惣社神社」は0ヒット)。
北から順にあげると、「総社」は石川県七尾市の総社(能登国総社)、愛知県豊川市の総社(三河国総社に推定)、岡山県津山市の総社(美作国総社)、広島市
「総社神社」は秋田県秋田市の総社神社(秋田市
現在も「総社(惣社)」の名称を冠している神社は、「一郡、一郷の総社」であった場合よりも、かつては「一国の総社」であった場合が多いようです。
なお、一国の総社の場合、国内諸社の分霊を勧請していたことから、五所大明神、六所大明神などとよばれる場合もよくみられ、大阪府和泉市の五社総社(和泉国総社)、島根県松江市の六所神社(出雲国総社)、神奈川県大磯町の六所神社(相模国総社)などはこの系譜を引く総社です。
武蔵国の総社であった東京都府中市の
茨城県石岡市の総社神社。近くには常陸国府推定地もある
ところで、岡山県総社市の元となった総社村は明治時代に誕生しましたが、江戸時代の町や村(「日本歴史地名大系」の根幹項目)で、「総社」「惣社」を名乗った町村も多く見られます。
そこで、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の見出し検索(完全一致)で、「総社町」「総社村」「惣社町」「惣社村」の4項目について検索してみました。結果は、「総社町」1件、「惣社町」1件、「惣社村」6件がヒットしました(「総社村」は0ヒット)。
「総社町」は前橋市の「総社町」。慶長年間(1596-1615)に秋元長朝が築いた新しい総社城に由来します。古い総社城や上野国総社は、南方に位置する元総社村にありました。「惣社町」は山口県下関市の「惣社町」。昭和四七年(一九七二)に
「惣社村」は栃木県栃木市の「惣社村」、地内の
松本市惣社の伊和神社。旧信濃国総社とされる
じつは、「日本歴史地名大系」で、「総社」と「惣社」をORで結んで全文検索を掛けると845件がヒットします。「一国の総社」のほかに「一郡、一郷の総社」や「地域の惣社」が数多く含まれていると考えられます。
しかし、これまでの考察でみると、「日本歴史地名大系」で項目になるような「総社」「惣社」、あるいは「総社町(村)」「惣社町(村)」は、やはり「一国の総社」に由来するような場合が多いことが判明したように思います。
(この稿終わり)