日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第114回 今年は丙申(ひのえさる)

2016年01月22日

今年は申年、2016年の2回目は「申」の字が付く地名や十二支に関連する地名を巡ります。まずは「申」の字が付く地名から。ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択、「申」と入力して見出し検索(部分一致)をかけますと16件がヒットします。

この検索結果画面を眺めますと、庚申信仰と結びついた「庚申」の2文字が目に付きます。「庚申信仰」について、ジャパンナレッジ「日本大百科全書(ニッポニカ)」は次のように記します。

十干十二支の組合せの一つで、60日または60年ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の日に営まれる信仰行事。元来は道教の三尸(さんし)の説に端を発している。人の体内にいる三尸という虫が、庚申の夜に人が眠るのを見澄まして天に昇り、天帝にその人の罪を告げる。すると、天帝はその人を早死にさせるというのである。したがって、長生きするためには、その夜は眠らないで身を慎むのである。これを守(しゅ)庚申という。三尸の説は中国では晋(しん)の時代から説かれていたというが、日本では平安時代の貴族社会において守庚申が行われてきた。そして、僧侶(そうりょ)の手によって『庚申縁起』がつくられるようになる室町時代ごろから、しだいに仏教的な色彩を帯び、庚申供養塔などが造立されるようになった。一方、民間にも広まり、村落社会の講組織などと結び付いて、仲間とともに徹夜で庚申の祭事を営む習俗である庚申講や庚申待(まち)といった形で定着していくのである。(以下省略)

庚申信仰は「申の年」というよりは、「申の日」に因んだ習俗のようです。それに、干支でいえば今年は丙申(ひのえさる)の年ですから、「庚申」関連の項目はカットします。そこで、検索ボックスの1段目に「申」と入力、2段目には「庚申」と入力して「次を含まない(NOT)」を選択して検索しますと(いずれも見出し・部分一致)、次の4件がヒットしました。

○福島県いわき市の「小申田横穴群(こさるだよこあなぐん)」
○愛知県春日井市の「如意申新田(にょいさるしんでん)」
○大阪市此花区の「申村(さるむら)」
○兵庫県高砂市の「申義堂跡(しんぎどうあと)」

いわき市の「小申田横穴群」は遺跡、高砂市の「申義堂跡」は郷校(跡)ですので除きます。残る2項目のうち「如意申新田」の項目には「寛文元年(一六六一)新木津しんこつつ用水開削を目当てに、如意村(現名古屋市)から移住開拓した。縄入は享保元年(一七一六)申年」とみえ、今から300年前の申年(享保元年、丙申)に開かれた新田であることがわかります。

春日井市の「如意申新田」は享保元年(1716、申年)の縄入れ。

ついで此花区の「申村」の項目には、「伝法村の北西にあり、南を伝法川が西流する。近世初頭の開発村で、延宝年中(一六七三―八一)の中島大水道開削に関する記録中に「申新田」がみえる(西成郡史)。地名から推定して申歳の開発と考えられ、寛永九年(一六三二)、正保元年(一六四四)、明暦二年(一六五六)のいずれかとされる(同書)」とあります。同じく申年の開発であることが判明、また、推定される開発年3候補のうち、仮に明暦2年であったならば、干支は「丙申」、360年(還暦6回分)の昔ということになります。

「申」の字では申年開発の村(新田)が幾つか存在するように、十二支の漢字が含まれる地名では、寅では寅年、辰では辰年に開発されたところといった項目が、どのくらいあるか調べてみることにしました。なお、十二支の漢字と「日本歴史地名大系」項目との関連については、当連載の第9回「あなたもチャレンジ! 難読地名~十二支編」(2007年11月2日更新)でも取り上げましたが、当時と現在では、ジャパンナレッジの検索システムが異なるため、第9回で記述したヒット数と今回のヒット数では異同がみられます。

まず、十二支に用いられる漢字ということで「子(ね)」の1字を入力して見出し検索(部分一致)をかけると、1218件がヒットしました。あまりにも多いので、「新しく開かれた村」ということで「新田」のキーワードを加え、「子」と「新田」を「かつ(AND)」で繋いで検索(いずれも部分一致)をかけ直したところ33件まで絞り込むことができました。

しかし、33件のほとんどが「子」の字の読みは「こ」または「ご」であり(「し」が1件)、「ね」の読みは次の6件でした。

○長野県茅野市の「子ノ神新田村(ねのかみしんでんむら)」
○愛知県春日井市の大光寺子新田(だいこうじねしんでん)」

○三重県木曾岬村(現木曽岬町)の「見入新田・見入子新田(けんにゅうしんでん・けんにゅうねしんでん)」
○同じく木曾岬村の「小和泉新田・小和泉南堤外新田・豊田子新田(こいずみしんでん・こいずみみなみつつみがいしんでん・とよだねしんでん)」
○同じく木曾岬村の「富田子新田・富田新田(とみだねしんでん・とみたしんでん)」
○三重県四日市市の「亥子新田(いねしんでん)」

6件のうちでは、春日井市の「大光寺子新田」の項目に宝暦6年(1756)の子年に高入れされた「子新田」を併せたとの記述がみえ、開発年との関係が確認できます。また、四日市市の「亥子新田」では、享和3年(1803、亥年)に開発開始との記述がみえますから、翌文化元年(1804、子年)に高入れされたと考えれば、「亥子新田」の名称がピッタリと納まります。

そのほかの4項目では、開発年に関連するはっきりとした記述はみえませんでした。しかし、木曾岬村の3項目などは、たとえば「見入新田・見入子新田」では、記述のみえる寛永14年(1637・丑年)開発の「見入新田」に、その後に巡ってきた子年に開発された「見入子新田」を併合させたと推測することは可能であり、「子年」と開発年の関係を一概に否定することはできないと思われます。

「子」「申」以外の「丑」「寅」「卯」「辰」「巳」「午」「未」「酉」「戌」「亥」の各1字と「新田」のAND検索では、「丑」「寅」「卯」「未」の4字はゼロヒット。「辰」は5件、「巳」「酉」は各3件、「午」は2件、「戌」「亥」は各1件がヒットしました。ただし、「辰巳新田」(四日市市)と「辰巳新田村」(徳島県阿南市)が含まれていて、「辰」「巳」で重複、また「亥」の「亥子新田」は既述の「子」の「亥子新田」と重複しますので、ヒット総数は12件としました。

岐阜県羽島市の「午北(うまきた)新田」は寛延3年(1750、午年)の検地高入れ。

この12件うち、5件には十二支の1字と開発年との関連について記述があり、残る7件でも2~3件は開発年との関連が推測できました。

ここまでの検証をまとめますと、「歴史地名」の項目で十二支の文字を含むものは、その地域の開発年を表しているとは必ずしもいえないが、近世以降の開発である可能性が高い「新田」項目では、かなりの確率で開発年との関連が考えられる、といえるのではないでしょうか。

(この稿終わり)