……山国川流域の山地は古くは山国、その渓谷を山国の谷(山国渓)とよんでいたが、文政元年(一八一八)頼山陽がこの地を遊歴して「耶馬渓山天下無」と詠じてから山国谷は耶馬渓とよばれるようになった。これ以前、元禄七年(一六九四)には貝原益軒が当地を旅し、「山国より流出。其源彦山の東より来る大河なり。河にそいてのぼれば、山国の谷に至る。此谷ふかく村里多きよしと云。又立岩多く景甚よし、険路なりとかや」と記し(豊国紀行)、……
山国川は大分県の北西端に位置する中津市を貫流する河川です。九州の霊峰として名を馳せる
周防灘に注ぐ直前、河口近くで山国川は東方に一流を分けます。現在中津川とよんでいるこの派川は、かつて山国川の本流でした。天正15年(1587)豊臣秀吉から豊前国8郡のうちの6郡を与えられた黒田孝高(如水)は、この中津川を西の備えとして城(=中津城。「黒田家譜」などでは中津川城とみえます)を築きました。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、黒田氏は筑前
JK版「日本歴史地名大系」などによりますと、かつては中津川(当時の本流筋)から東方に
この築堤の影響でしょうか、寛文9年(1669)の大洪水後に、現在の山国川本流筋に相当する直線的な流路が誕生したといいます。ただし、新流路の水量はそれほどではなく、江戸時代には依然として現在の中津川が山国川の本流でした。しかし、近代を迎え明治22年(1889)の大洪水で本流と分流の流量が逆転し、現在のような姿になったとされています。
ところで、確実な史料で「中津」の地名が確認できるのは、江戸時代以降のこと。それまでの史料には「中津川(中津河)」という地名(川名)しか見えず、山国川の川名も戦国期以前は中津川であったと考えられています。江戸時代になると、中津川(現在の山国川)は
ここで、今まで述べてきたことを整理してみましょう。安土桃山時代、黒田孝高によって中津川(当時はそうよばれていたと考えられる)と大家川に挟まれた中洲に城が築かれます。当初、「中津川城」などとよばれていたこの城は、江戸時代になって細川氏が入部する頃には「中津城」とよばれ、その城下町を「中津」とよびました。しかし、その頃になると、かつて中津川とよんでいた川は、高瀬川とよぶのが一般的になりました。さらに、寛文年間に生まれた新流路の河道が徐々に広くなって、明治の洪水で本流・分流が逆転する頃には、現在用いられている山国川の名称が定着します。「山国」の名は古く上流域が山国谷とよばれていたことに由来します……。
なぜこのようにくどくどと同じことを繰り返し述べてきたか? といいますと、現存する史料からのみ推測すれば、現在の大分県中津市の市名に継承される江戸時代の中津城下の名は、中津川に由来すると考えるのが妥当と思われます。しかし、一方で、黒田孝高が城を築いた土地(中洲)が、早くから「中津」とよばれていたため「中津川」という河川名が生じたのではないか? との疑いも残されるからです。つまり「中津」が先か? 「中津川」が先か? という命題になります。
次回はこの命題解決のために、JK版「日本歴史地名大系」の個別検索機能を活用して「中津」地名、「中津川」地名の特色などを探ってみることにします。
(この稿続く)