日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
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さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第89回 和紙の里めぐり(4)

2015年02月06日

今回は、杉原すぎはら紙の周辺を旅します。杉原は「すいばら」「すぎわら」などとも読み、現在の兵庫県多可たか郡多可町加美かみ地区(旧加美町)の北部、杉原川の上流域(杉原谷)で古くから漉かれていた紙。平安時代、同所は杉原庄(「椙原庄」とも記します。近衛家領)となり、同時代の史料には「椙原庄紙」とみえます。

鎌倉時代になると、杉原谷で漉かれた杉原紙は公家・武家・僧侶等の用紙として広く浸透。室町時代には武家社会において「一束いっそく 一本いっぽん」あるいは「一束一巻」といって、杉原紙一束(1束は10帖)に、紗綾さや、あるいは縮緬ちりめん一巻を加え(布の一巻は省く場合もある)、これに扇(末広)一本を添えたものが、贈答品の基本になりました。

このあたりのことについては、ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」の【一束一巻】の項には、

室町、江戸時代に行なわれた献上物。杉原紙一束(一〇帖)に紗綾(さや)、あるいは縮緬(ちりめん)一巻と扇とを添えたもの。

とあり、さらに用例として、「紙譜」(「新撰紙鑑」)の【杉原類】の項を引いて次のように記します。

「此紙は、上々様へ献上紙也。拾帖壱本と云て、右の紙を壱帖づつ弐折にやりちがへ、十帖重ねて、中を水引にて結び〈略〉。又壱束壱巻(クヮン)といふも、右のごとく水引にて結びたる上に、紗綾、或は縮緬を壱巻、末広を添て、献上するをいふなり」

なお、「1帖」は紙の種類によって異なり、半紙では1帖=20枚、懐紙は1帖=30枚、美濃紙では1帖=48枚、または50枚といいます。どちらかといえば美濃紙に近い杉原紙の場合も1束は480枚、あるいは500枚といったところでしょうか。

杉原紙のふるさと、兵庫県多可町の杉原谷周辺

室町時代後期から江戸時代に杉原紙の用途はさらに広がり、需要増に合わせて、杉原谷ばかりではなく、他の地域でも漉かれるようになりました。ジャパンナレッジの「日本歴史地名大系」で「杉原紙」と入力して全文検索をかけると61件がヒット。地方別でみると、北海道・東北地方から九州・沖縄地方まで万遍なく分布しており、生産地が全国に広がっていたことがうかがえます。

大和国吉野よしの郡で漉かれた杉原紙が「吉野杉原」とよばれるなど(「日本歴史地名大系」奈良県【吉野郡】の項目)、産地の地名や国名を冠した「○○杉原」といった言い方も散見します。

隆盛を誇った杉原谷での紙生産ですが、明治時代になって洋紙技術が導入されると、他の和紙産地と同様に生産量は激減し、大正時代末期に杉原谷での紙漉はいったん途絶えました。

不思議なことですが、この頃には、かつて武家社会の贈答品として重用された「杉原紙」の本来の産地がどこかかが判然としなくなっていたといいます。あまりにも多くの地域で杉原紙が漉かれていたからかもしれません。

ちなみに「日本歴史地名大系」で「杉原」と入力して「見出し(部分一致)」検索をかけると19件がヒット、「杉原」の地名が数多いことがわかります。しかし、「杉原」(見出し・部分一致)に「紙」(全文検索)を加えてAND検索をかけると、ヒット件数は3件に減少。

この3件とは本家本元である兵庫県多可郡加美町(現多可町)の【杉原庄】と岐阜県揖斐いび藤橋ふじはし村(現揖斐川町)の【西杉原村】、静岡県賀茂かも松崎まつざき町の【小杉原村】の3項目。3項目を読み比べてみれば、杉原紙の発祥地がどこかは歴然としているのですが、少なくとも当時(昭和初期)は不明だったようです。

しかし、昭和15年に言語学者の新村しんむら いずる氏、英文学者で書誌学や和紙の研究者でも知られた寿岳じゅがく 文章ぶんしょう氏の2氏が杉原谷(当時は杉原谷村)を訪れて、同所が杉原紙の原産地であることを明確にします。昭和41年には杉原谷小学校の敷地に「杉原紙発祥之碑」が建立され、昭和45年には地元の郷土史家・藤田貞雄氏らの奔走によって「杉原紙」の再現に成功します。

昭和47年には町立(当時は加美町、現在は多可町)杉原紙研究所が設立されて本格的な杉原紙生産の再興に一歩を踏み出しました。昭和58年には「杉原紙技術」の名称で「杉原紙保存会」が兵庫県の無形文化財に指定され、平成5年には県の伝統的工芸品に指定されました(以上、多可町ホームページなどを参照)。

ここまで「杉原紙」の栄枯盛衰と再興をながめてきましたが、ジャパンナレッジ「国史大辞典」の【杉原紙すいばらがみ】の項目は前述の寿岳文章氏が執筆者。そこで、少し長文になりますが、「杉原紙」のおさらいとして同項目を引用します。

スギハラ・スイハラ・スイバ・スイなどとも呼び、古くは椙原、降っては水原とも書いた。十二世紀の初めごろから京都の上流階層に愛用された楮(こうぞ)を原質とする紙で、播磨国杉原谷(兵庫県多可郡加美町)が原産地であったことによる命名。同地は近衛家の荘園でもあった関係から、椙原庄紙の名は『知足院関白記』(『殿暦』)永久四年(一一一六)七月十一日条下に初出する。紙屋院はすでに漉きがえし専門の機構となっていたので、陸奥紙(みちのくにがみ)や檀紙などに匹敵する手ごろで使い勝手のよい地方産の美紙としてもてはやされ、公家・武門・僧侶の間に、最も幅広く愛用されるようになり、杉原一束(十帖)の上に末広一本を添えたいわゆる「一束一本」が、代表的な贈答品とされる風習を定着させた。このような情況を反映して国内各地に「何々杉原」を名のる同質紙の登場を見たが、本場の播磨ものが最も高い声価を堅持していたことは、元和九年(一六二三)成立の『醒睡笑』に「紙は日本一の播磨杉原」とあるのからもうかがえる。全盛時には杉原谷全域で漉かれたらしく、大広・大中・漉込・大谷・中谷・荒谷・八分・久瀬・思草など、さまざまの名称を伝えているが、標準寸法は縦三二センチ・横四四センチであった。近世から明治にかけての杉原は米糊を加えてほのかな光沢を出しているので、糊入(のりいれ)の別称を持つが、中世以前のものには糊気がない。『正倉院文書』にはすでに播磨を冠した薄紙・経紙・白中紙・中薄紙・中紙・荒紙などが見出されるが、これらの紙もおそらく多くは杉原谷で漉かれたと推定される。播磨杉原が写経などにも適していたことは陽明文庫所蔵の古記録からも証明されるが、端的にその事実を告げているのは狂言の「かくすい」に登場する播磨の百姓の「播磨紙いかなる人のかく漉いて筆は走りて文字はとまれり」という即咏ぶりからも推定される。

いかがですか? 「杉原紙」に対するあたたかい眼差しが感じられる文章だと思いませんか?

ところで、杉原谷の地は古代の律令郡郷制下では播磨国多可郡「賀美郷」の地でした。「賀美郷=カミゴウ」は全国各地にみられる郷名で、賀美は加美・香美などとも記します。ちなみに「日本歴史地名大系」で「賀美郷」「加美郷」「香美郷」の3つを入力し、「見出し(部分一致)」「OR検索」を掛けますと27件もヒットします。

一般的にいって「カミゴウ」の「カミ」は かみなかしもの「上」の意、と考えられることが多いのですが、今回、杉原谷の周辺をめぐった筆者は、27件の「カミゴウ」のなかには、「紙(郷)」に通じる「カミゴウ」も含まれているのではないか? との思いが頭をよぎりました。

これまで「和紙の里めぐり」の旅を続けてきましたが、手漉和紙の生産は衰退の一途をたどっているといっても過言ではありません。「全国手すき和紙連合会」(全和連)によりますと、手漉和紙業者の数は、明治34年には6万8562戸であったものが、昭和17年には1万3463戸、昭和37年に3748戸、昭和58年には479戸となり、平成13年には392戸にまで減りました。

しかし、見方をかえれば、まだ全国で400戸近い紙漉業者が日夜奮闘している、ともいえます。皆さんも、少しあらたまった挨拶状は「手漉和紙」の葉書で出す、といった和紙応援団の一員になられてはいかがでしょうか。どの和紙を応援すればよいのかわからない……という方は、全和連の下記サイトを御参照ください。

⇒全和連「全国和紙産地マップ」

(この稿終わり)

なお、これまで言及してきた国指定重要無形文化財の「本美濃紙」「細川紙」「(土佐)典具帖紙」の読み方について、それぞれ「ほんみのし」「ほそかわし」「てんぐじょうし」と振り仮名を付しました。一般的には、それぞれ「ほんみのがみ」「ほそかわがみ」「てんぐじょうがみ」の読み方が通用していますが、このシリーズでは、始めに文化財としての側面を取り上げたため、文化庁の文化財指定名称である「ほんみのし」「ほそかわし」「てんぐじょうし」の振り仮名を採用しました。