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第106回 加古川の戦(3)

2015年10月02日

第2ラウンド

加古川の河川争奪、次なる対戦相手は由良ゆら川です。まずは由良川のプロフィールから(国土交通省・近畿地方整備局・福知山河川国道事務所・由良川電子資料館「遊んで学んでゆらがわ探検」より)。

由良川は、京都、滋賀、福井の県境にある、美山みやま町(現京都府南丹なんたん市)芦生あしうの杉尾峠を源流として、日本海の栗田くんだ湾に注ぐ延長146km、流域面積1,880km2の全国でも有数の大河川です。自然豊かな美山町の芦生の森から、和知わち町(現京都府京丹波町)の河岸段丘の谷間をぬい、戸奈瀬となせの渓谷を過ぎて、上林かんばやし川と合流後、綾部市と福知山市の市街地が広がる福知山盆地に入ります。さらに、福知山市内では土師はぜ川との合流地点からは北方へと流れを転じ、大江おおえ町(現福知山市)を経て、舞鶴市と宮津市の市境を流れ日本海に注いでいます。由良川流域の約9割が緑豊かな山林であるため、近畿の一級河川の中でもトップクラスの良好な水質を維持しています。全国でも有数の自然豊かな清流として、またサケが流れをさかのぼってくる京都府では数少ない河川として知られています。

流域面積は加古川(1730㎢)とほぼ互角、幹川流路延長(加古川=96km)は由良川に軍配があがります。流域に豊かな自然が溢れていることは甲乙付けがたく、格好の対戦相手といえるかもしれません。ただし、加古川が瀬戸内海に注いでいるのに対して、由良川は日本海へと注いでおり、ここは大きな相違点といえるでしょう。

はじめに紹介する加古川と由良川の古戦場は、兵庫県の丹波市と篠山市の境界に位置する栗柄くりから峠です。篠山市の北部、丹波市境にある杉ヶ谷池を水源として南西に流れ下る杉ヶ谷川は、栗柄峠の東側で急遽、流路を西に替え、滝の尻川となって西に向かいます。野瀬川と合流した滝の尻川は竹田たけだ川と名を変えて西流を続けます。丹波市中央部で北流に転じた竹田川は土師川に注ぎ、土師川は由良川に入って日本海に向かいます。

ところで、元来の杉ヶ谷川は栗柄峠近くで流路を変えることなくそのまま南西流を続け、宮田川となって篠山川と合流、篠山川は加古川となって瀬戸内海に注いでいたと考えられます。しかし、先回触れましたように、宮田川・篠山川ともに、加古川が武庫川から争奪した河川で、約2万年前に起こった篠山湖(古篠山湖)の河床の上昇が要因と考えられています。滝の尻川(竹田川)による杉ヶ谷川(宮田川)の争奪も、加古川による宮田川・篠山川の争奪と同様に篠山湖の河床の上昇が要因と考えられていますから、栗柄峠における河川争奪は、あるいは由良川水系と(宮田川を加古川に争奪される前の)武庫川水系の間で起こった事象である可能性も否定できません。

栗柄峠の谷中分水界。杉ヶ谷川はかつて宮田川へ(地図の右上から左下への谷)と続いていた。

このコーナーの第68回(「大分水界のグレーゾーン(1)」2012年9月28日更新)で触れた丹波市氷上町石生ひかみちょういそう地区にある、水分みわかれ公園(本州でもっとも低い中央分水界)も、じつは、加古川と由良川による河川争奪の結果生まれた谷中分水界だったのです。その記事では次のように記しました。

むかい山の西南麓を水源とする高谷たかたに川の流路は公園内で整備され、北へ分岐する水路が設けられています。この分水路へ導かれた水流は黒井くろい川-竹田たけだ川-土師はぜ川を経て由良ゆら川となって日本海に、一方、直進する高谷川の本流は加古かこ川となり、瀬戸内海に注いでいます。

水分れの本体である高谷川に注目していますが、じつは、高谷川の加古川合流点付近で柏原かいばら川も加古川に注いでいます。(筆者が地図を眺めて得た結論では)この柏原川を加古川が争奪したのではないかと思われるのです。そうしますと、加古川は杉ヶ谷川を由良川に奪われましたが、柏原川は奪い取ったということで、1勝1敗の引き分けということになります。

ところで、加古川シリーズの1回目で取り上げた「武庫川散歩」に所載される「武庫川の流れにズームイン」(小林文夫)によりますと、20万年よりもっと前の時代、由良川は若狭湾に注ぐ小河川だったそうです。ところが、20万年前頃までに、現在の福知山市街付近の土師川合流点より上流域、それより以前には、土師川合流点より下流で由良川に合流するまき川の流域など、当時は加古川水系に属していた河川を次々と争奪、その結果、由良川は現在のような大河になったというのです。ちなみに、由良川に争奪される前の加古川の流域面積は、現在の倍近く、中国地方第一の大河である江の川や四国の吉野川に匹敵するほどだったと「武庫川の流れにズームイン」は推定しています。

では、武庫川に勝った加古川を大差で退けた由良川がチャンピオンか、といいますと、そうは問屋が卸しません。京都府のホームページに載る「京都府レッドデータブック(2015)」の「地形」に取り上げる「由良川及び胡麻ごま川の分水界」は、南丹市日吉町ひよしちょう字上胡麻新町の谷中分水界について次のように記します。

JR山陰本線胡麻駅と下山しもやま駅の間には、由良川水系(畑郷はたごう川)とかつら川水系(胡麻川)とに分かれて流下する幅700mもの平坦な谷中分水界がある。ここは胡麻平原とも呼ばれ、南流する胡麻川側では平坦でゆるく南へ傾斜している。一方、由良川水系の畑郷川沿いでは比高30mもの急崖を形成する。このような特徴は河川争奪による流路変更が生じたことを示す。すなわち、この広い段丘面は桂川(大堰おおい川や田原たわら川、園部そのべ川などを併せたもの)がかつて北流し、胡麻を経て由良川に合流していた当時の流路跡が残されたものである。

かつて、丹波高地のほとんどは由良川から加古川を経由して太平洋に注ぐ水系に属していた。しかし、殿田とのだ付近で亀岡側から侵食を進めてきた河川によって争奪され、亀岡盆地に流れこむようになった。これは約30万年前頃に発生したと考えられ、亀岡断層などの活動により亀岡側の斜面が急勾配になって侵食力が増大したためである。したがって、船岡ふなおか峡谷はかつて園部川が北流していたが、今では大堰川がその流路をたどって逆に南流しているのである。また、亀岡盆地の本格的な沈降もこの頃以降に生じた。

現在、胡麻分水界のほぼ中央部に道路が走り、酪農や野菜づくりが盛んに行われている。また、京都へ通勤する人々の住宅が増えつつあり、破壊が進んでいる部分も多い。

胡麻の分水界。北側の水は若狭湾へ、南側の水は大阪湾へ。

平坦地にある谷中分水界の自然景観が、開発によって失われつつあるために「レッドデータブック」に記載されたようです。前掲「武庫川の流れにズームイン」では由良川による加古川の争奪を約20万年前のことと考えていますが、それより前の約30万年前頃、すでに由良川(当時は加古川の上流部)は大堰川(下流は保津川・桂川とよばれる。淀川水系)によって争奪されていたらしいのです。「レッドデータブック」にみえる「丹波高地のほとんどは由良川から加古川を経由して太平洋に注ぐ水系に属していた」という記述は、そのあたりのことをいっているのでしょう。しかし、加古川、武庫川、由良川、大堰川……三つ巴、四つ巴の争奪の経過を順序立てて説明することは、筆者にとって荷が重過ぎます。

とにもかくにも、京都府から兵庫県へと続く中央分水界には低位の谷中分水界が多く存在することがわかりました。このうち石生を中心とした一帯は俗に「氷上回廊ひかみかいろう」(現在の丹波市に相当する旧氷上郡の郡名に因む)とよばれています。これは、この低位の分水界を介して、魚類や昆虫や植物など、日本海側(北)の生物と瀬戸内海側(南・太平洋側)の生物の交流、混在が数多く確認されたことから名付けられました。丹波市役所生活環境部環境政策課の「氷上回廊」のサイトは次のように記します。

オヤニラミやイトモロコ、ナガレホトケドジョウなどの南方系の魚は北の由良川 に、北方系のホトケドジョウやアブラハヤ、ミナミトミヨ(※今は絶滅)などは 南の加古川に分布を広げました。その結果、ホトケドジョウとナガレホトケドジ ョウ、アブラハヤとタカハヤなど、本来北と南で別々に暮らしていた近縁種同士 が同じ河川で共存する、とても珍しい水域となっているのです。

どうやら、河川争奪の結果生じた谷中分水界は、生物相はもちろんのこと、ヒト・モノをも含んだ多様な文化の交流点の役割を果たしているのかもしれません。

(この稿終わり)