日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第83回 南箕輪村の不思議

2014年11月07日

前回は「みのわ」地名について考察しましたが、そのなかで、現在の自治体名(市町村名)に「みのわ」地名を採用しているのは、長野県上伊那かみいな郡の箕輪みのわ町と南箕輪みなみみのわ村の2町村のみと記しました。

この2町村のうちの一つ、南箕輪村はなかなかユニークな村で、他の市町村にはない(あるいは極めて少ない)特色が幾つかみられます。東を南アルプス(赤石山脈)、西を中央アルプス(木曾山脈)に挟まれ、南流する天竜川沿いに平地が開ける伊那谷(伊那平、伊那盆地とも)の北部に位置する南箕輪村について、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」は次のように記述します。

天竜川の段丘上の村で、北は箕輪町、他の三方は伊那市に接する。集落は段丘崖を上下して南北に走る伊那往還(現国道一五三号)に沿って発達し、北より久保くぼしお北殿きたどの南殿みなみどの田畑たばた神子柴みこしば等がある。東境は天竜川で、その沖積地の西は幾つもの段丘を経て山麓の扇状地に続いている。村の西から南にかけては平坦地であるが、伊那市との境は入り組んでいて複雑である。そして伊那市大字西箕輪を飛び越えて木曾山脈の中腹から山頂にかけて広大な飛地がある。 その一部の大泉所おおいずみどころ山に源を発する大泉川は村の中央部を東流し天竜川に注ぐが、伏流のため中流の大泉地域は古来水利が悪い。しかし、昭和初期に西天竜用水路が建設されたため、平地林や桑園は水田と化し、更に第二次世界大戦後の開発により、大芝おおしば北原きたはら南原みなみはら等の集落が発達した。昔は第一段丘の上下の地域に稲作中心の農業が行われ、その肥料源として西部山地に採草地が求められ、残米は木曾地方へも移出された。 明治二二年(一八八九)の町村制施行にあたっても、明治八年にできた南箕輪村のまま一村として変わることなく、今日に至っている。

特色の一つは「伊那市大字西箕輪を飛び越えて木曾山脈の中腹から山頂にかけて広大な飛地がある」と記されるように、大きな飛地をもっていることです。飛地をもつ市町村は全国に数多く所在しますが、ほとんどの場合、飛地の面積は本体の10分の1あるいは100分の1といった具合です。しかし、南箕輪村の場合、集落が展開する天竜川左岸平地(本体)の面積が19.2平方キロメートル、これに対して木曽山脈北部にあたる黒沢山、大泉所山、きょうたけ権兵衛ごんべえ峠の東斜面の山林飛地(かつての入会秣場、無住地区)の面積が21.7平方キロメートルと本体を上回っています。

伊那市を挟み西方山地に大きな飛地がある

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ちなみに、青森県の五所川原ごしょがわら市と北津軽郡中泊なかどまり町のように、津軽半島の北西端に中泊町の北部地域(旧小泊村)があり、その南東に五所川原市の北部地域(旧市浦村)が続き、さらにその南西に中泊町の南部地域(旧中里村)、さらにその南西に五所川原市の南部地域(旧金木町と旧五所川原市)が続くという、飛地同士が入れ子状態となっている例もありますが、これは平成の大合併の際、合併問題が拗れたための産物。こうした特殊事情がなく、しかも本体に相当するような飛地のある自治体は、全国でも非常に珍しいといえるでしょう。

特色の二つ目は、先に「日本歴史地名大系」で「明治八年にできた南箕輪村のまま一村として変わることなく、今日に至っている」と記述されるように、明治22年(1889)の市制町村制施行による合併(いわゆる明治の大合併)、昭和28年(1953)の町村合併促進法施行以降の合併(いわゆる昭和の大合併)、平成17年(2005)の新合併特例法施行による合併(いわゆる平成の大合併)、いずれの波にも飲み込まれずに単独自治体であり続けたことです。

こうした自治体は、ほかにも東京都西多摩にしたま檜原ひのはら村、山梨県北都留きたつる丹波山たばやま村、同小菅こすげ村、同南都留郡道志どうし村などがあり、それほど珍しくはないのですが、前掲4か村がそうであるように、周囲から隔絶された山間地の自治体に多くみられ、南箕輪村のような平地に展開して隣村と近接するような場合には、あまり類がないといえます。

特色その三は、信州大学農学部があること。全国の村で国立大学のキャンパスが所在するのは南箕輪村だけだそうです。

特色その四は、全国町村のなかでは数少ない人口増加地域であるということ。

首都圏への一極集中、地方の人口減少が危惧されるこの頃ですが、それぞれの地域においても、県庁所在地(あるいは政令都市、地方拠点都市)への人口集中と山間地の過疎化が問題となっています。先に記しましたように、南箕輪村は山間僻地の村ではないのですが、長野県の県都長野市からは直線距離で約100キロ、地方拠点都市の松本市からも約40キロ離れています。

たとえば、今年1月1日に市制を施行した、かつての岩手県岩手郡滝沢たきざわ村は県都盛岡市に隣接してベッドタウン化が進捗、ついに人口が5万人を突破していきなり市制を施行したもの。南箕輪村と同じ長野県の東筑摩ひがしちくま山形やまがた村も全国で数少ない人口増加村なのですが、やはり、村の三方を地方拠点都市である松本市に囲まれており、同市のベッドタウンとしての性格が顕著です。

周囲を松本市に囲まれた山形村は人口増加地域

南箕輪村の平成22年の国勢調査での人口は1万4852人、増加率は6.8パーセントで(平成 17年の国勢調査との比較)、長野県下の市町村では北佐久きたさく軽井沢かるいざわ町(平成22年の国勢調査人口1万9018人)の10.9パーセントに次ぐ高率となっています。しかも、軽井沢町は社会増・自然減(平成26年の人口動態調査)であるのに対して、南箕輪村の場合は、社会増・自然増で、社会増減・自然増減の双方で増加しています。軽井沢町には「避暑地の聖地・旧軽井沢」という類稀な観光資源がありますから、社会増はうなずけるところです。

ここで、人口規模が南箕輪村とほぼ同規模の長野県埴科はにしな坂城さかき町(平成22年国勢調査人口1万5730人)とも比較してみましょう。上田市と千曲市に挟まれた坂城町は千曲川に沿って、しなの鉄道や国道18号が走り、上越自動車道の坂城インターチェンジ(東京から200キロ圏)があります。戦前から工場誘致には熱心で、20年ほど前には坂城テクノセンター(現さかきテクノセンター)を開館、インターチェンジ近くの工業団地への工場誘致も成功しています。しかし、平成12年(2000)国勢調査時をピークとして、以後人口は減少に転じました。

南箕輪村は天竜川に沿ってJR飯田線、国道153号が走り、伊那市境に中央自動車道の伊那インターチェンジ(東京から200キロ圏)があり、工業団地も幾つか造成されており、坂城町に近い条件が整っています。しかし、平成24年の製造品出荷額等は坂城町が約1427億円(前年比2・8%増)で県下12位、南箕輪村は647億円(前年比26・9%減)で県下23位となっており、工業面では坂城町が優勢といえるでしょう。

南箕輪村と規模が似ている坂城町

このようにみてきますと、南箕輪村は大都市圏からの距離、観光資源、工業面等々でさほど優位ではないのに、なぜ人口が増加しているのか、という疑問が湧いてきます。南箕輪村ほか各市町村のホームページを閲覧した結果、筆者がたどりついた一つの考えは、南箕輪村が子育て支援に力を注いでおり、長期にわたってさまざまな施策を行ってきた成果ではないか、というものでした。

役場の組織でいえば軽井沢町は「住民課」の下に「児童係」があり、さらにその下に「子育て支援センター」が置かれています。坂城町は「福祉健康課」の下部組織として「子育て推進室」を設置しています。ところが南箕輪村では「住民福祉課」とは別に、独立した「子育て支援課」という1課が設けられています。ホームページのインターフェイスでも、気が付きやすい位置に「子育て」のアイコンを置くライフステージ欄があって、他の市町村に比べて扱いが大きく、利用者はすぐに「子育て」情報に行き着ける構造となっていました。

ここまで、南箕輪村の特色を幾つかあげていました。たとえば、大きな飛地があることは入会地を守り続けた結果かもしれませんし、合併しないのは、独立独歩の気概が強いからかもしれません。また、国立大学のキャンパスがあるのは教育施設の誘致に熱心だったからもしれません(これらはすべて筆者の推測です)。しかし、長年培ってきたこのような風土が、子育て支援に早くから取り組む姿勢につながり、現在の地方衰退傾向に一石を投じるようなユニークな自治体となった要因かもしれない、と筆者は想像する次第です。