江戸時代の城下町の道路の特徴として、敵方の侵入に備え、道を丁(てい)字路や食い違いにしたところが多いことは広く知られています。ジャパンナレッジ「世界大百科事典」の【城下町】の項目は次のように記しています。
城下町内の一般的な町割りと道路網をみると,方格状的地割りに類似するものが多いが,それを基盤にして防御上,丁字型,五字型および袋小路が多い。また遠見遮断のため,街道の城下町の出入口は湾曲の道路になり,升型の部分を形成している場合が多くみられる。
道が突き当たって「丁」の字(あるいは「T(ティー)」の字)のような形状になっているのを一般に丁字路といいます。近頃は「丁字路」ではなく、「T字路」だと思い込んでいる人も多いのではないでしょうか。確かに道路標識も「丁」字形というよりは、「T」字形といったほうが、その形状にあっています。
ただ、辞書類では、まだまだ「丁字路」が主流です。ジャパンナレッジの「基本検索」で「丁字路」と入力して「見出し」(部分一致)で検索をかけると、1件の人名(「日本人名大辞典」【合田丁字路(ごうだちょうじろう)】、俳人)を除いて「日本国語大辞典」など7件がヒットします。一方、「T字路」では「デジタル大辞泉」1件のみのヒット。その「デジタル大辞泉」も【丁字路】への送り項目となっています。
もっとも、「日本国語大辞典」の【丁字路】項目には、現在は「T字路」と書くことが多い、との注があります。
かくいう筆者も人に道を訊かれた時、「ここを真っすぐ行くと、突き当たってT字路(発音はティージロ)になりますから、そこを左に曲がって……」などとこたえているような気がします。
ちなみに、ジャパンナレッジの「詳細(個別)検索」で文藝春秋アーカイブズ(大正12年~昭和25年)を選択、全文で検索をかけると、「丁字路」は8件がヒットしましたが、「T字路」は1件(昭和12年7月号の鶴田知也の「牡鹿の崖」という小説)のみで、やはり、かつては「丁字路」が主流であったことがわかります。
ところで、江戸時代の町場で、こうした丁字路状の道沿いに形成された町の名前の一つに「撞木町」があります。「撞木」(しゅもく・しもく)とは鉦を叩く道具で、ジャパンナレッジ「例文仏教語大辞典」の【撞木・鐘木】の項目は次のように記します。
仏具の一種。鐘、
ジャパンナレッジ「日本歴史名大系」で「撞木町」を検索(見出し・部分一致)すると3件がヒットします。1件は名古屋城下の「
1件は大坂三郷の「
そして、もう1件が伏見の「
豊臣秀吉が伏見城下町を造成した一六世紀末、京都の
慶長九年(一六〇四)渡辺掃部・前原八右衛門が再興を出願して、富田信濃守屋敷跡に場所を変えて開かれたのが、江戸時代に発展する撞木町遊郭。
延宝六年(一六七八)刊「色道大鏡」や元禄版の「傾城色三味線」には、撞木町遊郭の揚屋・置屋等一〇余軒、郭の門が南方にあったことも記される。赤穂浪士を率いる大石良雄が、敵方の目をくらますため遊興し密計を練ったのも当遊郭といわれ、撞木町の密謀は成就するとの伝説をも生み、来会するものも少なくなかったと伝える。「東海道中膝栗毛」にも「桃山のけつね」として撞木町の遊女のことが記される。
ここも「丁字路」への言及はありませんが、「撞木町遊郭」が置かれていた【
かつての撞木町遊郭跡。「橦木町廓之碑」と記す石碑も立つ
歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」では大星由良助(大石内蔵助)が放蕩に耽るのは祇園一力茶屋ですが、史実は「撞木町遊郭」だったようです。ただ、「撞木町遊郭」は内蔵助閑居の地(現京都市山科区の
「日本歴史地名大系」では各地の城下項目に、「城下の交差点は多くは食違っていて、丁字路は四八ヵ所が認められ」(青森県【弘前城下】)、「街路は城下町に多くみられるように屈曲したり丁字路などが工夫されているが」(山形県【山形城下】)、「また外周であるこれら白潟地区・外中原地区・奥谷地区の道路は城下町特有の丁字路・鉤形路・袋小路が多く、見通しがききにくいように工夫されている点も特徴である」(島根県【松江城下】)、「城下建設時には市街戦を想定した町割が行われたとみられ、各所に鉤形や丁字路が設けられている」(福岡県【福岡城下】)等々、城下町特有の丁字路についての言及が散見します。
しかし、戦後の高度経済成長期、モータリゼーションの進展に伴って「丁字路」は交通渋滞の元凶などといわれました。その後、区画整理や道路整備が進み、現在では見通しの良い直線路や十字路などに変貌を遂げた丁字路も多くなりました。
(この稿終わり)