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第169回 二つの江戸川

2020年08月07日

江戸川と聞くと、千葉県と埼玉県・東京都の間を流れて東京湾に注ぐ河川を思い浮かべる方が多いと思います。東京都江戸川区の区名由来となった一級河川です。

事実、河川法上の江戸川は「千葉県関宿せきやど町と境を接する茨城県五霞ごか村で利根川から分流し、千葉県の東境に沿って流れ、東京湾に注ぐ延長五九・九キロの河川」で(ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」「東京都の地名」の【江戸川】の項目。関宿町は現野田市、五霞村は現五霞町)、当然のことながら、利根川水系に属しています。

しかし、江戸時代に利根川の流路変更が行われる以前は、足尾山地の水を集める渡良瀬川わたらせを上流とする河川で、古くは太日川とよばれていました。そのあたりについては、同じく「東京都の地名」の【江戸川】の項目に次のように記されます。

江戸時代前期に現在の河道が開削される以前、古代から中世にかけての江戸川は、「太日川」あるいは「太井川」と表記された。(中略)承和二年(八三五)六月二九日の太政官符(類聚三代格)は、東海・東山両道諸国の河川に渡河のための浮橋、貢租を運搬する人々の飢餓を救うための布施屋の造作と渡船の設置を、管轄する国府に命じている。「下総国太日河」も従来は二艘だった渡船が四艘に増やされた(古代東海道の太日川渡河点は、おおよそ下総国府所在地である現在の市川市国府台から松戸市にかけての辺りであろう)。

同項目はさらに続けて、古代東海道を旅したと思われる「更級日記」の作者の記述を引きます。

「更級日記」の作者菅原孝標女の家族一行らの寛仁四年(一〇二〇)に父が上総介の任期を終え京都へ帰還する途中、下総と武蔵の国境を流れる「ふとゐがはといふがかみの瀬、まつさとのわたりの津」に宿泊している。「ふとゐがは」は当川のことで、「まつさとのわたりの津」は松戸(現松戸市)と推定される。(中略)なお文永六年(一二六九)に成立した仙覚の「万葉集注釈」は「布止井川」と訓じている。奥書によれば仙覚は同書を武蔵国比企ひき郡北方麻師宇郷で著しており、「布止井」の訓は鎌倉時代における現地の読みを正確に表していたと思われる。(後略)

かつて太日川とよばれていた流れが、江戸川とよばれるようになった経緯について、「埼玉県の地名」の【江戸川】の項目に次のような記述がみえます。

寛文五年(一六六五)関宿城主板倉重常の御手伝普請により関宿から赤堀川に通じる新川が開削された(下総旧事考)。これをさかさ川という。この逆川の疎通によりそれまで栗橋くりはし(現栗橋町)から権現堂川を迂回して江戸に上り下りした利根川の舟運は、直接関宿から新利根川に入るようになり、川名も江戸川と称されて舟運の隆盛をみた。このことについて「風土記稿」に「コレ常陸・上野・下野・下総等ヨリ江戸通船ノ路ナレバ此名アリ云」とあり、川名の由来を説いている。(栗橋町は現久喜市)

江戸幕府による利根川・荒川の流路変更によって、東京湾に注いでいた諸河川のうち、東側の流れ(渡良瀬川)は利根川の分流となって江戸川となり、中程の流れ(旧荒川を合わせた旧利根川本流)も利根川の分流となって中川となり、西側の流れ(入間川)は新しい荒川の流路となって墨田川となり、それぞれ江戸湾(東京湾)に注ぐようになったと考えられます。

それはさておき、江戸川の川名由来は「江戸へ物資を運ぶ通船の要路」となったことにあるようです。

さて、もう一つの江戸川です。これは、江戸時代の神田川中・下流の別称で、現在は地下鉄有楽町線の江戸川橋駅(文京区)にその名を留めています。

ジャパンナレッジ「世界大百科事典」の【神田川】の項目は次のように記します。

東京都の中央部を東西に流れて隅田川に合流する川。全長25.3km。上流部は武蔵野台地に掘り込まれた数条の狭い浸食谷を流れる。そのうち神田川本流は井の頭池を,善福寺川は善福寺池を源流としているが,それらの水は武蔵野台地の礫(れき)層からの滲出(しんしゆつ)水である。他の支流,妙正寺川,江古田川にも同じく谷頭ならびに崖端からの滲出水があり,その水は古来谷地田の灌漑用水源であった。なお妙正寺川の下流から神田川本流沿いに染色工場が集中しているが,それは崖下から同種の水が得られ,また工場廃水を川へ流せる利点があるからである。近世には水質も良く,水量も確保できたから,現在の文京区関口1丁目あたりで取水のうえ,文京区・千代田区の一部へ配水されていた。そのため神田川は長い間,取水地点より上流部を神田上水,JR飯田橋駅付近までを江戸川,下流部を神田川として区別していた。(後略)

また、ジャパンナレッジ「江戸名所図会」の【神田川】の項目は次のように記します。

江戸川の下流にして、湯島聖堂の下を東へ流れ大川に入る。明暦より万治〔一六五五―六一〕の頃に至り、仙台侯、台命を奉じ、湯島の台を掘り割り、小石川の水をはじめてここに落とさるるといひ伝ふるは、少しく誤るに似たり。古老の説に、慶長年間〔一五九六―一六一五〕、駿河台の地闢けしときに至り、水府公〔水戸藩主〕の藩邸の前の堀を、浅草川へ掘りつづけられ、その土をもつて土堤を築き、内外の隔てとなしたまふといふ。この説しかるべきに似たり(按ずるに、昔は舟の通ひ路もなかりしを、仙台侯、命をうけたまはられし頃、掘り広げ、いまのごとく舟の通ひ路を開かれたりしなるべし)。

諸説はあるのですが、大雑把にいうと、山手台地中央部を刻む小谷の谷水や湧水を集めて日比谷入江に注いでいた川(平川・江戸川)に、山手台地北部の水も集めて関口(文京区)で2流に分け、北側の1流を神田上水、南側の1流を神田川としたうえで、神田川(旧平川・江戸川)の流路を南流から東流へ変更して隅田川(大川)に注ぐようにしたとも考えられます。

地下鉄「江戸川橋駅」付近から下流の神田川は「江戸川」とよばれた

小さい頃から城北地区に住んでいた筆者(江戸川橋に馴染みが深い)が、「江戸川橋」と「江戸川区」を峻別できるようになったのは後年になってからのことでした。いずれにせよ、徳川幕府の治水・用水計画によって変更を受けた二つの河川が、いずれも「江戸川」の名でよばれるようになった点は興味をひかれます。

様相は少し違うのですが、似たような例(?)として、淀川水系の木津川があげられます。淀川上流(支流)にあたる木津川は、「世界大百科事典」に次のように記されます。

伊勢と伊賀の境界をなす布引山地に源流を発し,前深瀬川,久米川を合わせて上野(伊賀)盆地に入り,柘植(つげ)川,服部川を合わせて西流する。この付近を伊賀川とも呼ぶ。次いで名張川,大和高原から北流する布目川,白砂川,信楽(しがらき)山地からの和束(わつか)川などを合流させ,京都盆地南部に入る。木津川市の旧木津町から河床こう配は緩くなり広いはんらん原を作って北流し,八幡(やわた)市橋本で宇治川,桂川と合流して淀川になる。古くは泉河と呼ばれて歌枕となり,また淀川水運の重要な幹線であった。奈良時代には泉木津に平城京諸大寺の木屋が設けられて木材や貨物輸送の基地となり,恭仁(くに)京が木津川の両岸(現在の木津川市の旧加茂町例幣付近)にまたがって建設された。(後略)

一方、淀川下流(分流)の木津川について、同じく「世界大百科事典」は次のように記します。

淀川下流の分流の一つで,大阪市西部を流れる。旧淀川の大川につづく土佐堀川とは中之島西端で分かれて西区を貫流し,道頓堀川を合わせ,尻無川を分岐させ,さらに南流して大阪湾に入る。延長11.8km。江戸時代には安治川とともに大坂に入港する諸国廻船の船着場となり,河口付近では加賀屋,恩加島などの新田開発が進んだ。(後略)

淀川分流の木津川

同一河川(淀川)の上流(支流)と下流(分流)に、同じ河川名が付くのは珍しいのではないでしょうか。上流部の木津川は「木(材木)の津(港)」が河川名の由来であることは確実です。下流部の木津川も同様とすれば、それは、石山本願寺の建設か? 太閤秀吉による大坂城と大坂城下町の建設か? はたまた難波宮の建設にまでさかのぼれるか? これも興味がつきません。

(この稿終わり)