国土地理院の地理院地図(電子国土Web)の色別標高図で大阪市街を眺めると、市街中心部の東側にわずかばかり標高の高い地域が、南北(南部では北北東―南南西方向)に連なっているのが見て取れます。
北端に「大阪城跡」があり、順に南に下ると「
この高みは一般に上町台地とよばれ、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の【上町台地】の項目は次のように記します。(なお、日本歴史地名大系「大阪府の地名」刊行時の東区、南区は現在中央区、大淀区は現在北区になっています)
大阪市内を南北に走る台地。和泉山脈の北に和泉から南河内にかけて広がる
上町台地の北端部に位置する大阪城跡。北を大川(旧淀川)が流れる
ノッペラボウといわれる大阪市街にあって、「〇〇山」「〇〇丘」「〇〇谷」「〇〇坂」といった地名のほとんどが、当然のこととはいえ、この上町台地に集中しています。【上町台地】の項目は、そのあたりについて次のように続けます。
台地西端は直線状の急崖をなし、
さらに、「上町台地」の呼称について、
台地面は百済野・
と記されます。江戸(東京)でいえば、「山の手」に近い呼称といえそうです。実際に、江戸時代の上町台地は武家地、寺地が多くを占めていて(
ところで、この上町台地には戦国時代、織田信長との間で足掛け11年にわたって続いた「石山合戦」で名高い石山本願寺がありました。「日本歴史地名大系」の【石山本願寺跡】の項目に「所在地は現在の大阪城本丸付近とする説と、その南に位置する
「大坂の陣」で真田信繁(幸村)が拠った「真田丸」も上町台地上に設けられた
さらに、「大阪」の地名の淵源も上町台地上に求められます。「日本歴史地名大系」の【大阪市】の項目は次のように記します。
大阪の地名は、明応七年(一四九八)一一月二一日の蓮如の消息に「東成郡生玉之庄内大坂」とみえるのが現在のところ初見とされる。一六世紀に入ると用例は多くみられるようになるが、以下の例のように小坂・尾坂・おさかとも表記されている。すなわち「高野参詣日記」大永四年(一五二四)四月条に「おさか」、「後奈良院宸記」天文四年(一五三五)六月一三日条に「尾坂本願寺」、「厳助大僧正記」永禄四年(一五六一)三月二八日条に「小坂大法会」、同五年正月二三日条に「小坂本願寺」とみえる。大坂と書かれている例も含めいずれも
大阪市域の坂道のほとんどが上町台地にありますから、「大坂」という地名の発祥も上町台地に求めるのは自然の成り行きといえるでしょう。なお、「大坂」から「大阪」への変遷について、同じく【大阪市】の項目は次のように記します。
江戸時代には大坂が定着し、おおさかと清音でよんだが、「摂陽奇観」に「或人大坂といふ事を書時に心得置べきは大坂の坂の字を土篇(扁)ニすれば土に反るとて忌べき事なるゆへ篇に書となり」とあるように縁起をかついでか(扁には盛ん、多しなどの意がある)、大阪と書かれる場合もあった。明治元年(一八六八)五月大阪府が設置されるが、同年八月に太政官から下付された「大阪府印」に阪の字が用いられていることなどから府名の正式表記は大阪であったとみられている。しかしなお明治一〇年頃まで公文書でも混用されていたが、しだいに阪に統一されていった。
「天下の台所」として繁栄を謳歌した大坂の町も、大坂(大阪)という地名もこの台地から始まったこと、上町台地が「大阪の母なる丘」とよばれるような高まりであることは御理解いただけたのではないでしょうか。-台地の「標高」-については次回に。
(この稿続く)