日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第166回 大阪の母なる丘、「上町台地」とその標高(1)

2020年05月01日

国土地理院の地理院地図(電子国土Web)の色別標高図で大阪市街を眺めると、市街中心部の東側にわずかばかり標高の高い地域が、南北(南部では北北東―南南西方向)に連なっているのが見て取れます。

北端に「大阪城跡」があり、順に南に下ると「難波宮なにわのみや跡」、「清水谷町しみずだにちょう」、「高津宮こうづぐう」、「生玉町いくたまちょう」、「四天王寺してんのうじ」、「阿倍野あべの」、「帝塚山てづかやま」、「住吉すみよし大社」などが地図上で読み取れます。住吉大社の南は微高地となり、「遠里小野おりおの」で大和川に突き当たって終わっています。

この高みは一般に上町台地とよばれ、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の【上町台地】の項目は次のように記します。(なお、日本歴史地名大系「大阪府の地名」刊行時の東区、南区は現在中央区、大淀区は現在北区になっています)

大阪市内を南北に走る台地。和泉山脈の北に和泉から南河内にかけて広がる河泉かせん丘陵・泉北せんぼく台地に続く台地で、大和川より北に向かって幅二―三キロ、長さ一二キロにわたって岬状に突出し、大阪平野を大阪海岸低地と河内低地に二分する。北端には大阪城が位置する。台地の高度は北部が高く標高二五メートルに達するが、南へ行くにしたがって高度を漸減させ一〇メートルほどになる。

上町台地の北端部に位置する大阪城跡。北を大川(旧淀川)が流れる

ノッペラボウといわれる大阪市街にあって、「〇〇山」「〇〇丘」「〇〇谷」「〇〇坂」といった地名のほとんどが、当然のこととはいえ、この上町台地に集中しています。【上町台地】の項目は、そのあたりについて次のように続けます。

台地西端は直線状の急崖をなし、安国寺あんこくじ坂(東区)、真言しんごん坂・愛染あいぜん坂・源聖寺げんしょうじ坂・口縄くちなわ坂(天王寺区)などの坂道や幾つかの清水湧出地があるが、台地東側は旧猫間ねこま川の谷からももヶ池(阿倍野区)・なが池(東住吉区)にかけての凹地と百済野くだらの(天王寺区)・我孫子あびこ(住吉区)の台地からしだいに高度を減じて西除にしよけ川・平野川沿いの河内低地へ移行する。(中略)西側に偏る台地稜線に対して多くの谷が入込み、清水しみず谷・細工さいく谷・大僧おおそう谷・御坊ごぼう谷などとよばれ、さらに宰相さいしょう山・桃山・聖天しょうてん山・帝塚てづか山などの小高い場所が点在している。

さらに、「上町台地」の呼称について、

台地面は百済野・夕陽ゆうひ丘・阿部野あべの・住吉岡・遠里小野おりおのなどの部分的なよび方はあったが、上町という地域名は豊臣秀吉による築城と城下町経営以後、船場せんばなどの下町筋に対する通称として成立したものである。したがって江戸時代における上町は、四天王寺(天王寺区)以北の台地における町場に限定されて使用されていたが、それがのちに地形単位として拡大して用いられるようになった。

と記されます。江戸(東京)でいえば、「山の手」に近い呼称といえそうです。実際に、江戸時代の上町台地は武家地、寺地が多くを占めていて(上本町うえほんまち筋などには町人地も開けていましたが)、この点も江戸の「山の手」に通じるところがあります。

ところで、この上町台地には戦国時代、織田信長との間で足掛け11年にわたって続いた「石山合戦」で名高い石山本願寺がありました。「日本歴史地名大系」の【石山本願寺跡】の項目に「所在地は現在の大阪城本丸付近とする説と、その南に位置する法円坂ほうえんざか付近とする説があって確定されていない」と見えますが、いずれにせよ上町台地上にあったことは間違いありません。また、「当寺を中心に形成された寺内町は都市大坂の出発点とされている」とも見え、現在の大阪市街も上町台地から始まったと考えられています。

「大坂の陣」で真田信繁(幸村)が拠った「真田丸」も上町台地上に設けられた

さらに、「大阪」の地名の淵源も上町台地上に求められます。「日本歴史地名大系」の【大阪市】の項目は次のように記します。

大阪の地名は、明応七年(一四九八)一一月二一日の蓮如の消息に「東成郡生玉之庄内大坂」とみえるのが現在のところ初見とされる。一六世紀に入ると用例は多くみられるようになるが、以下の例のように小坂・尾坂・おさかとも表記されている。すなわち「高野参詣日記」大永四年(一五二四)四月条に「おさか」、「後奈良院宸記」天文四年(一五三五)六月一三日条に「尾坂本願寺」、「厳助大僧正記」永禄四年(一五六一)三月二八日条に「小坂大法会」、同五年正月二三日条に「小坂本願寺」とみえる。大坂と書かれている例も含めいずれも石山いしやま本願寺(上町台地の北端近く、現東区の大阪城域ないしは同区法円坂一帯にあったとされる)の所在地ないしはその一帯を示す地名として用いられている。ルイス・フロイスの「日本史」にも多出するが一貫してVozacaと表記されているといわれ、ジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」の表記も同様である。「吉利支丹物語」(寛永一六年刊)には「大ざか」とある。以上からみて近世初期までの大坂は「おさか」ないしは「おざか」とよばれていたとみられるが、どちらが一般的であったかはわからない。いずれにせよ当初は石山本願寺の所在地一帯をさす地名であったが、その地に豊臣秀吉により城が築かれ、城下町が整備されていくにつれ、市街地全体をさす地名に変化していったようである。前掲「日本史」や「日本教会史」の用例は都市としての大坂を示している。こうした変化の過程で表記も大坂に定着していったようであるが、なお「太閤秀吉卿於小坂御越年」(「義演准后日記」文禄五年正月一日条)とあるように、小坂も混用されていた。(後略)

大阪市域の坂道のほとんどが上町台地にありますから、「大坂」という地名の発祥も上町台地に求めるのは自然の成り行きといえるでしょう。なお、「大坂」から「大阪」への変遷について、同じく【大阪市】の項目は次のように記します。

江戸時代には大坂が定着し、おおさかと清音でよんだが、「摂陽奇観」に「或人大坂といふ事を書時に心得置べきは大坂の坂の字を土篇(扁)ニすれば土に反るとて忌べき事なるゆへ篇に書となり」とあるように縁起をかついでか(扁には盛ん、多しなどの意がある)、大阪と書かれる場合もあった。明治元年(一八六八)五月大阪府が設置されるが、同年八月に太政官から下付された「大阪府印」に阪の字が用いられていることなどから府名の正式表記は大阪であったとみられている。しかしなお明治一〇年頃まで公文書でも混用されていたが、しだいに阪に統一されていった。

「天下の台所」として繁栄を謳歌した大坂の町も、大坂(大阪)という地名もこの台地から始まったこと、上町台地が「大阪の母なる丘」とよばれるような高まりであることは御理解いただけたのではないでしょうか。-台地の「標高」-については次回に。

(この稿続く)