日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
地名の由来、歴史、風土に至るまで、JK版「日本歴史地名大系」を駆使して解説します。
さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第93回 あづまはや(1)

2015年04月03日

静岡県と神奈川県の県境に位置する足柄あしがら峠は、数多い富士山ビューポイントのひとつ。箱根外輪山の金時きんとき山(1213メートル)から北に延びる稜線上にあり、標高は759メートル。静岡県小山おやま町と神奈川県南足柄市との間を結び、かつては駿河・相模国境の峠でした。

ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の【足柄峠】(静岡県/駿東郡/小山町)の項目は次のように記します。

(前略)古代から中世初頭には坂東と畿内を結ぶ官道(東海道足柄路)が通る交通の要衝で、足柄坂ともよばれる。「古事記」には倭建命が当峠を越えたとき、亡妻を偲んで「阿豆麻波夜」といったことが東国の地名由来であるとの伝承を載せ(景行天皇段)、「常陸国風土記」にも相模国の「足柄の岳坂」より東の諸県はすべて「我姫あづまの国」と称したとの記載があり、当峠は東国への入口と認識されていた。(中略)
律令制下では峠の東に相模国坂本さかもと(現神奈川県南足柄市)、西に駿河国横走よこはしり(所在は現御殿場市、あるいは小山町に比定される)の駅が置かれた。(後略)

ヤマトタケル(倭建命)が「亡妻を偲んで『阿豆麻波夜』といった」とありますが、「古事記」には「其の坂に登り立ちて、三たびなげかして、『阿豆麻波夜あづまはや』と詔云りたまひき。故、其の国を号けて阿豆麻と謂ふ」とみえます。

ヤマトタケルが亡妻を偲んで歎いたという足柄峠

ヤマトタケルについてジャパンナレッジ「新版 日本架空伝承人名事典」の【日本武尊(やまとたけるのみこと)】の項目は次のように記します。

『古事記』『日本書紀』『風土記』などに伝えられる英雄伝説の主人公。記では倭建命と記す。景行天皇の第三皇子で、母は播磨稲日大郎姫はりまのいなびのおおいらつめとされ、幼名に小碓おうす命、倭男具那やまとおぐな王がある。年少にして勇武人にすぐれ、諸方の平定に派遣されて日本武尊の名を得るが、長途の征旅、漂泊の末に力尽きて倒れる悲劇的人物として描き出されている

さらに、同人名事典は「古事記」に基づく「ヤマトタケル物語の大要」について記します。これによりますと、ヤマトタケルが足柄峠に至るまでの経緯は、(少し長くなりますが)以下のようなものでした。

(前略)小碓命(ヤマトタケル)の兄の大碓おおうす命は父天皇の召し上げた乙女を盗み、ために朝夕の食事に参会しなかった。そのことを教えさとせと父から命じられたオウスは、兄が朝のかわやに入るところを捕らえ手足をひき裂いてこもに包んで投げ捨ててしまう。その勇猛に恐れをいだいた天皇は、オウスを西方の賊平定に派遣する。これがこの皇子の征旅と漂泊の生涯の発端である。まだ少年のオウスは女装して熊曾建くまそたける(熊襲魁帥)兄弟の宴席に入り、宴たけなわのときに兄弟を剣をもってあいついで刺し通した。虫の息のクマソが皇子をたたえてヤマトタケルの名を奉ったがオウスはそれを聞きおえるや否や、相手を熟苽ほぞちのように振りさいて殺したという。

 ヤマトタケルとなった皇子はさらに各地の山の神、河の神、海峡の神を征し、出雲の出雲建を詐術で討ち、西方平定をしとげて天皇に復命した。しかし天皇は重ねて追い立てるように、東方十二道の荒ぶる神、王化に従わぬ者を征討せよと命じる。ヤマトタケルは出発にさいし伊勢の大神に参り、斎宮であるおばの倭比売やまとひめ命(倭姫命)から草那芸剣くさなぎのたちと袋を授かるが、そのとき「天皇はこの私に死ねというのだろうか、西方のいくさから帰りまだ時をへぬうちに軍勢も賜らずなお東国に遣わそうとする」と述べ、憂い泣いたという。東国においてもまつろわぬ神・人をことごとく平らげる。その間、相模国では国造くにのみやつこに欺かれて野火に囲まれるが草那芸剣と袋の中の火打石によって難を逃れた。また走水はしりみずの海(浦賀水道)では、渡りの神の妨害にあい、后の弟橘比売おとたちばなひめ(弟橘媛)が皇子に代わって入水し神の心をなごめて船を進めることをえた。足柄の坂でヤマトタケルは三たび嘆いて「あづまはや」(わが妻よああ)といい、それが「あづま」の地名の起りとなったとされる。そこより甲斐、信濃を経て尾張に至り、往路に婚約した美夜受比売みやずひめ(宮簀媛)と結婚する。(後略)

「亡妻」とは走水の海神を鎮めるために入水した弟橘比売(「日本書紀」は弟橘媛)のことをいっていたのですね。ところで、「日本書紀」ではヤマトタケル(日本武尊)が弟橘媛を偲んで「あづまはや」と歎いた地は足柄峠ではありませんでした。「日本書紀」の該当箇所を以下に記します。

つねに弟橘媛をしのびたまふみこころします。故、碓日嶺うすひのみねに登りて、東南たつみのかたおせりて三たび歎きてのたまはく、『吾嬬あづまはや』とのたまふ。故りて山のひむがし諸国もろもろのくにを号けて、吾嬬国あづまのくにと曰ふ。

この「碓日嶺」について「日本歴史地名大系」の【碓氷峠うすいとうげ】(群馬県/碓氷郡/松井田まついだ町=現安中市)の項目は次のように記します。

松井田町と長野県北佐久きたさく軽井沢かるいざわ町にまたがる峠。現在は碓氷川上流中尾なかお川水源近くの、国道一八号と信越本線碓氷トンネルが通る峠をいう。標高九五七・七メートル。一帯は上信越高原国立公園に含まれる。古代には上野・信濃を結ぶ官道は東山道であった。この頃は現碓氷峠南方の入山いりやま峠(一〇三八メートル)を越えたといわれ、峠近くで祭器と考えられる多数の石製模造品が発見されたことがこの説を補強している。入山峠は遠入とおいり川の上流部にあたり、「日本書紀」景行天皇四〇年の記事に日本武尊が弟橘媛をしのんで、「碓日嶺に登りて、東南をおせりて三たび歎きて曰はく、「吾嬬はや」とのたまふ」とあるように眺望にすぐれている。(中略)
昌泰二年(八九九)九月一九日付太政官符(類聚三代格)には上野国碓氷坂に関所が設置されたことがみえ、天慶三年(九四〇)四月六日には碓氷関使が停止されている(貞信公記)。この関は東山道碓氷坂に設置されたものと考えられる(→碓氷関所跡)。碓氷坂は「五代集歌枕」「八雲御抄」にあげられる。また前掲「日本書紀」の記事をめぐっては、「古事記」が「あづまはや」の嘆きの場所を相模足柄あしがらとすることから、日本武尊東征の順路が記紀で異なることとも関連して、「古事記伝」でもいずれの地であるかが取り沙汰されている。なお、碓氷の表記はほかに碓日・臼井・臼居などあるが、よみは「うすい」で一貫していた。「笛吹」と表記するものもある。

矢ヶ崎山を挟んで北方に碓氷峠(北陸新幹線が県境を越える辺り)、南方に入山峠

「碓日嶺」は、その読みを継承する碓氷峠にあてるのが妥当のように思われますが、碓氷峠より以前の上信連絡路であった、現在の入山峠にあてるのが正しいのかもしれません。ところが「日本歴史地名大系」の【鳥居峠とりいとうげ】(群馬県/吾妻あがつま郡/嬬恋つまごい村)の項目には、つぎのような記述もあります。

田代たしろと長野県小県ちいさがた真田さなだおさの境にある。上信国境の大分水嶺をなし、吾妻川は峠付近を源流とするので上流部を鳥居川とよぶこともあった。北は四阿あずまや山、南は角間かくま山・まる山で、その鞍部標高一三六二メートルに位置し、国道一四四号が通る。江戸時代は北方五〇〇メートルの標高一三九〇メートルの地点にあった。「名跡志」(「上野名跡志」)は日本武尊が「碓日嶺」に登り「吾嬬はや」と嘆いた地(「日本書紀」景行天皇四〇年条)をこの峠とする。鳥居峠の称は、四阿山頂の吾妻権現または信州の山家やまが神社(現真田町)の奥宮参拝口に建てられた鳥居からよばれたと思われ、今も石鳥居がある。近世初頭利根とね・吾妻が真田氏支配となり、沼田城と上田うえだ城(現長野県上田市)を結ぶ道は重要な戦略ルートであった。

少しややこしくなってきましたね。そのあたりについては次回に。

(この稿続く)