先回は、川口(埼玉県川口市の中心部、江戸時代の川口町)の地名由来は、同所が
入間川=現在の荒川の流路、と注記したのは、天正18年(1590)の徳川家康の関東入部後、入間川(水源は外秩父山地など)・荒川(水源は奥秩父山地など)・利根川(水源は三国山脈など)をはじめとして、関東平野を流下する主要河川の多くが、改修工事によって大幅に流路を変えたためです。
大雑把にいえば、現在、荒川に注いでいる入間川は、近世前期の荒川の瀬替え以前は、現在の荒川-隅田川の流路を通り、東京湾に注いでいました(それまでの荒川下流部の本流筋は、おおむね現在の綾瀬川の流路にあたります)。ただし、その頃の隅田川には、利根川の分水も流れ落ちていました。近世の改修以前の利根川の本流路は、現在でいえば古利根川から中川へと続く流れに相当し、葛飾区の
ついでにいいますと、昭和40(1965)年の河川法改正で、荒川下流部の本流は荒川放水路になりました。この放水路は大正2年(1913)に本格的に着工し、昭和5年に竣工した人工河川で、古くは入間川、近世の付け替え後は荒川の本流筋であった隅田川は、現在は荒川の派川扱いということになります。ああ、ややこし、ややこし。
現在の川口中心市街は、河口部(ここでいう河口部とは隅田川の河口部)から約25キロ上流に位置しています。では、川口が河口でなくなったのはいつ頃か? という問題になります。すぐに思い浮かぶのは縄文海進ですね。今から約1万から5500年前、縄文時代早期から前期にかけて、海面水位は今よりも高く(ピーク時には現在の海面より2-3メートル高かったといいます)、関東平野の奥深くまで東京湾が入り込んでいました。その後の海退期を経て、現在の姿となりますが、河口部の推移には堆積や地殻変動も関係しますので、単純に現在の標高から川口が河口でなくなった時期を割り出すことはできません。
ここでまた、すぐに思い浮かぶのは、河口部であったならば貝塚が形成されただろう、という推測。そこで、JK版「日本歴史地名大系」の個別検索で、「貝塚」を〈見出し〉で、「川口市」を〈全文〉で入力してAND検索をかけたところ、3件がヒットしました。そのなかのひとつ「
さらに、JK版「日本歴史地名大系」で東京都の足立区・北区(埼玉県川口市からみると荒川=かつての入間川のすぐ下流にあたる地域)の〔原始・古代〕を読んでみますと、両区の沖積低地(荒川流域の低地)で人間の営みが顕著になったのは、弥生時代後期から古墳時代前期といいます。そうしますと、「川口」の地名が誕生・定着したのは、安行式土器の縄文晩期よりは少し時代が下り、下流部が陸地化したとみられる弥生時代後期から古墳時代前期よりは少しさかのぼった時期、おおむね弥生時代の真ん中あたりといえるでしょうか。
先回、全国に存在する「川口」地名では、パターンcの「合流点の川口」が多いと記しました。しかし、そのなかには埼玉県の川口ように、現在はパターンcの「合流点の川口」に合致しているが、じつは、地名の誕生時にはaパターン「海辺の川口」であったというケースも含まれているかもしれません。
ところで、川口の地名が確実な史料にみえるのは、鎌倉時代末期に成立した「とはずがたり」。作者の後深草院二条(大納言久我雅忠の女)は、正応二年(一二八九)一二月、河越入道後家尼に招かれて川口にしばらく滞在、入間川を挟んだ対岸、岩淵宿の様子なども記しています(もちろん、すでに入間川の河口部ではありません)。ここまで推理してきた結果が正しいとすれば、弥生時代に誕生・定着したと思われる川口という地名が、史料で確認できるのは地名の誕生から1000年以上も過ぎてから、ということになります。
現在用いられている町名や大字といった地名の元となったのは、多くは江戸時代の村名や町名です。これら村名・町名のなかには、古代や中世の史料で確認できる地名も数多くあります。しかし、圧倒的に多いのは、近世、しかも江戸時代以降の史料に初めて現れる地名です。ただ、史料では江戸時代に初めて確認できる地名でも、それより遙か昔に生まれ、その後、脈々と地域の人々に受け継がれてきた、という場合も数多いと思います。今まで検討してきた川口という地名のように。
もちろん、地名がその土地の来歴をすべて語っているわけではありません。しかし、ある範囲の幾つかの地名を丁寧に点検してゆくことで、それまで史料上では確認できなかった地域の新しい歴史像が浮かびあがってきた、ということも間々あります。「地名は貴重な文化財」といわれる所以です。
(この稿終わり)