先回は、大阪市街中心部の東側を、南北に連なる小高い丘=上町台地について、戦国時代、この台地の上に築かれた石山本願寺の寺内町が、現在の都市大阪の淵源であること、石山本願寺の所在地をさす地名(「おさか」ないしは「おざか」)が現在の大阪の地名の起こりであることなどを述べ、「大坂の町も、大坂(大阪)という地名もこの台地から始まった」と記しました。
ところで、さかのぼって古代、上町台地の一帯は「
近世に大和川が付替えられるまで大和川と淀川は難波の北東方で合流し、
現在は上町台地の南端を画している大和川ですが、これは江戸時代の宝永年間(1704‐11)に付替えられた人工の流路で、それまでは、上町台地の東側を「何本もの分派流となって、北流ないし北西流して一部は
現在の大阪市域は、古代まで上町台地の微高地を除けば、西は大阪湾、東は上町台地の北端から東方へと湾入していた「奥大阪湾」ともよぶべき湾入部(河内湾)で、この湾入部はやがて堆積・陸地化が進んで、河内潟→河内湖(深野池・新開池は河内湖の名残)と変遷しました。
上町台地の北東端に近く、標高7メートル付近の傾斜面に位置する大阪市中央区の
縄文時代中期から近世に及ぶ複合遺跡で、(中略)縄文後期から弥生中期にかけての時期には、東西四五メートル・南北一〇〇メートル以上の範囲にわたって貝塚が形成されているが、ここから縄文後期に属するもの七体をはじめ、縄文晩期および弥生時代に属するものなど計一八体の埋葬人骨が検出された。貝塚は大きく二層に分れ、マガキを主体とする下層は縄文中期末から後期後半にかけての土器を出土し、セタシジミを主体とする上層からは縄文晩期から弥生中期の土器を出土する。縄文後期から晩期にかけての貝層の変化は、上町台地の東に深く入りこんでいた河内湾が狭小化して潟に移行し、淡水域が広がったことと関係する。
と記します。縄文時代から人の営みが刻まれた上町台地は、まさに「大阪の母なる丘」であることがおわかりいただけたかと思います。7~8世紀に機能した難波宮、聖徳太子発願による創建を伝える四天王寺、摂津一宮住吉大社等々、いずれも上町台地上に営まれました。
画面の中央に見える「森ノ宮ピロティホール」は、森の宮遺跡の上に建てられた
この頃、乱流しながら、上町台地の北を通って大阪湾に流れ込んでいた淀川・大和川の河口部や河口に近い川沿いに「船の着く津はその各所に」あって、合わせて「難波津」とよばれていたのですが、「日本歴史地名大系」の同項目は次のように続けます。
難波津の機能としては、第一に中国や朝鮮諸国と交換した使節の発着港となり、外交上重要な役割を果したこと、第二に西国へ赴任する官人や大宰府(現福岡県太宰府市)に行く防人の発着の港として内政上重要な役割をもったこと、第三に調庸など諸国から貢進される公的な物資および商人が私的に運漕する商品の集散地として経済上重要な港であったことなどがあげられる。このように難波津は七―八世紀に大いに栄えたが、淀川の運ぶ土砂によってしだいに港が浅くなり、機能が低下した。
都が飛鳥地方や奈良盆地の南部にあった時代、外国からの使節は難波津で上陸、上町台地を南に進んで
くだって平安時代になると、難波津の後身ともいうべき
この母なる丘である上町台地に、戦国時代、石山本願寺が築かれ、その跡に豊臣秀吉の大坂城、その跡にさらに、徳川氏によって新たな大坂城が築かれたのです。
さて、上町台地の標高です。
国土地理院の地理院地図(電子国土Web)で見ますと、現在の大阪城天守閣の北東、内堀に近いところの三角点標高は32.9メートルとあります。先回紹介した「日本歴地名大系」の【上町台地】の項目では、「北端には大阪城が位置する。台地の高度は北部が高く標高二五メートルに達するが、南へ行くにしたがって高度を漸減させ一〇メートルほどになる」とありました。
画面の中央、「石山若宮大明神」と見えるあたりに三角点がある
32.9メートルと25メートル、じつは、三角点のあるところは秀吉の大坂城の石垣を覆いつくすようにして築かれた徳川氏の大坂城の石垣の比較的高い部分にあたります。約8メートルの差は徳川氏による嵩上げ分といえるでしょう。
江戸の市中でみると、講談・浪曲の「寛永三馬術」曲垣平九郎で名高い愛宕山(現東京都港区。NHKの前身JOAKがラジオ放送を始めた地)の三角点標高は25.7メートル。旧江戸城天守台付近の三角点標高は29.6メートル。じつは、起伏の多いことで知られた江戸も、水の都とうたわれた平坦な大坂も、(ほぼ最高点の)標高でいえばそれほどの差はなかった、といえるのではないでしょうか。
ところで、上町台地の北端部(標高32.9メートル地点)は、長く大阪市域の最高点でした。ところが1970年代に大正区
上町台地は大阪市の最高標高点の地位からは陥落しました。しかし、その歴史の厚み、重要度からいえば、大阪市の歴史を語る「最高の場所」としての地位は、まだまだ他に譲っていないと筆者は思います。
(この稿終わり)