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第59回 信濃の国(2)

2011年11月25日

前回、長野県は旧信濃国一国を版図とするものの、県内各地域の風土の違いが顕著で、地域間対立もあった……と記しました。各地域の風土の違いについては、JK版「日本歴史地名大系」に次のような記述がみえます。

長野県の風土は厳しい。激しい寒気も、豪雪も、周囲をさえぎる険岨な峠道も、他の都道府県では想像もできない点である。しかしその厳しさは、そこに住む人々の生活を圧倒し去るほどの強大なものではなく、長野県人に特長があるとすれば、それはこの厳しさにいかに対応し、いかに乗り越えてきたかという点から生れている。(中略)このような風土に育てられた人々の在り方は、県内に分れて存在する幾つかの盆地や谷々によって微妙な変化をもたらしている。言葉遣い一つをとってみても、南方の伊那谷では関西系統が入ってやわらかくやさしい。東信濃では関東系の言葉で、どことなく荒々しくそっけなく聞えるのと対照的である。また北信濃の人々は忍耐強く、諏訪の人々には一徹者が多い。住居のつくり方を比べても、明らかに地域によって大きな相違がある。(『長野県の地名』【総論】「各地域と地方色」《信州人》の項より)

長野県では地域における風土の違いは顕著であるが、ただ「厳しい自然」だけは県内各地に共通している……といっているようにも思えます。地域間対立の淵源となった長野県成立の経緯については、以下のような記述がみえます。

この年(注:明治4年)行われた廃藩置県によって信濃には一四の県が生れたが、同年一一月全国が三府七二県に統合された時、信濃東北部の六県をまとめて長野県とし、中南部の四郡と飛騨国とによって筑摩県が成立した。そして明治九年六月筑摩県庁が焼失したのを機に飛騨国を岐阜県に分ち、筑摩県は長野県に合併されることになった。これが現在の長野県である。(『長野県の地名』【総論】「長野県の成立」の項より)

ところで、合併前の旧長野県と旧筑摩県は、県政の方針や内容にかなりの差がありました。また、新しい長野県の県庁所在地が北に偏っていたために、合併後も旧両県に所属する人々の間に対立が激しく、県庁移庁論や分県論が繰り返されたといいます。その辺の事情については、

明治二二年には旧筑摩県出身の県会議員らの建白書によって、元老院で分県論がいったん可決されたが、旧長野県派の県会議員らの反対で内務省がこれを拒絶し、長野県の分県はついに成立しなかった。その後も県庁移庁論・分県論は何度か再燃し、時には騒擾にまで発展し、大正時代まで続いた。昭和二三年(一九四八)に長野県庁が火災に遭って、重ねて分県論が起きたが、ついに成立しなかった。(同じく「長野県の成立」の項より)

とあります。つまり、長野県は旧信濃国一国を版図として成立したようにみえますが、じつは、旧筑摩県の県庁(所在地は現在の松本市)が焼失したことを機に、筑摩県の東半(旧信濃国の南西部4郡、中信と南信を合わせた地域)を旧長野県(旧信濃国の北東部6郡、北信と東信を合わせた地域)に編入・合併させて誕生したのが現在の長野県で、結果として旧信濃国を県域とすることになりましたが、はじめから旧信濃国をまとめて一県とする企図があったわけではない、ということになります。

たしかに南北200キロにおよび、北海道を除けば岩手県・福島県に次ぐ全国3位の広大な面積を有する長野県にしては、県庁所在地(現在の長野市)は北に偏しているといえるでしょう。そのため、長野県の地域間の対立=北部(北信・東信連合)と南部(中信・南信連合)の対立は、常に県庁舎の移転問題を背景に潜ませていたといえるでしょう。

『補訂版長野県百科事典』(1981年、信濃毎日新聞社)では「移庁・分県運動」という項目を立てて次のように記しています。

1881(明治14)年の県会に東筑摩,南安曇,諏訪,小県,南佐久各郡の県会議員から移庁の建議があって以降,1882年の分県運動,1888年の移庁運動,1888~91年の分県運動,1890~91年の移庁運動,1908(明治41)年の移庁運動,1932~33(昭和7~8)年の移庁運動,1948~49年の分県運動,さらに1962~63年の移庁運動があった。(中略)移庁・分県運動は狭い地域的な利害の衝突に傾きやすく,1890(明治23)年の移庁派議員への長野町民の暴行,1891年の松本騒擾事件,1933(昭和8)年の県会での流血事件など,賛成・反対の双方に暴力を振るう事件や騒ぎをひきおこした。

現在の長野県が誕生してから70年以上、第二次世界大戦後になっても分県運動が真剣に討議されていた県、といのは全国でも珍しいのではないでしょうか。しかも、暴力沙汰、流血事件が何度も繰り返された、というのですから、この対立は相当に根が深かったといえるでしょう。

ところで、今までは長野県内の地域間対立ばかりを話題としてきましたので、これからは、対立を繰り返してきた長野県を一つにまとめてきたもの、という話題にかえてみましょう。その一つが県歌「信濃の国」の存在です。

全国のほとんどの都道府県では、それぞれ都道府県歌が制定されていますが、たぶん、ほとんどの人はその存在にすら気づいていないと思います。まして歌える人は、ほんの少しでしょう。筆者は東京都在住ですが、都歌といわれてとっさに思い浮かべたのは「東京音頭」でした。もちろん「東京音頭」は都歌ではなく、昭和22年に制定された立派な都歌(⇒東京都のH.P.)が存在します。

しかし、長野県の場合は違います。昭和43年に県歌に制定された「信濃の国」(⇒長野県のH.P.)は県民のほとんどが諳んじていて、同窓会などで長野県民(あるいは長野県出身者)が集まる機会があれば、必ずといっていいほど歌われます。驚異です。県民に浸透している度合いでいえば、東日本では群馬県の「上毛かるた」(⇒財団法人群馬文化協会のH.P.)と双璧をなす、といってよいでしょう(子供の時に習った44枚の「かるた」の文句のほとんどを大人になっても覚えている、という群馬県民、または群馬県出身者は筆者の周りにも少なからずいます。驚異です)。

「信濃の国」の県歌制定に尽力した長野県総務部広報県民室初代室長の太田今朝秋氏が著した『県歌「信濃の国」の誕生―県民愛唱歌の今と昔―』によると、先述の昭和23年の県議会で起こった分県問題審議の際、議場では期せずして自然発生的に「信濃の国」の大合唱が起こり、結果として分県議決が回避されたといいます。

(この稿続く)

 

東西130キロ、南北200キロに及ぶ長野県。県都、長野市は確かに北に偏している

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