日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
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第88回 和紙の里めぐり(3)

2015年01月23日

先回は、ユネスコの無形文化遺産に登録された石州半紙せきしゅうばんし本美濃紙ほんみのし細川紙ほそかわしの周辺を散策しました。今回はユネスコの無形文化遺産には登録されていないが、国の重要無形文化財に指定されている「名塩なじお雁皮紙がんぴし」「土佐とさ典具帖紙てんぐじょうし」の周辺を歩きます。「越前奉書えちぜんほうしょ」も同じく国指定重要無形文化財ですが、初回にほんの少しだけ言及しましたので、今回の訪問は見合わせです。

まずは、「名塩雁皮紙」から。ジャパンナレッジの「日本歴史地名大系」で「名塩」と入力して見出し検索をかけると、兵庫県西宮市の【名塩村】1件のみがヒット。もちろん、ここが名塩雁皮紙のふるさとです。「日本歴史地名大系」は次のように記します。

有馬ありま郡に属し、生瀬なまぜ村の北西、武庫むこ川に注ぐ名塩川が形成する東西に長い谷のほぼ中央部に集落が位置する。教行寺縁起(教行寺蔵)によると文明七年(一四七五)九月、越前吉崎よしさき(現福井県金津町)から若狭・丹波を経て広根ひろね(現猪名川町)に至った蓮如が、名塩の村人に招かれて地内中山なかやまの草庵に留錫したとあり、当時の名塩付近の家数は二四軒にすぎなかったという。
(中略)
特産の紙漉の創業については諸説あるが、当村の東山弥右衛門が越前より技術を持帰ったという説に基づき安政二年(一八五五)に紙職元祖碑が建立された。越前吉崎と関係の深い教行寺の存在から、越前の紙漉職人との交流があった可能性もある。寛永一五年(一六三八)の「毛吹草」に諸国物産として名塩鳥子とみえ、江戸時代初期にはすでに広く知られていた。また「摂陽群談」には「名塩紙(中略)大坂の市店、或は有馬湯本に荷出て、入浴の旅客に商之」「同鳥子土、同所にあり、此土を設け鳥卵紙に漉交へ美を能す、卵色を以つて鳥子紙と称す」とあり、雁皮を原料とし、これに地元産の凝灰岩の泥土を混ぜるのが特色で藩札にも利用されている(「名塩産藩札文書」黒川古文化研究所蔵)。
(中略)
紙漉は男子職人によって行われ、漉舟につけた胸当てに体を託すようにして木桁に漉草をすくい上げ、座ったまま両腕を動かして繊維をからませる溜漉とよばれる伝統的手法である(県指定無形文化財)。この過程で糊を入れないのは日焼けを防ぎ、火に強く、虫食いがなく、紙の変色を防ぐためで、強度や耐久性から、かつては箔打紙や襖・屏風の下張りとなる間似合紙としての需要が多く、また紙質のよさから藩札・両替手形をはじめ経本の用紙などに多く用いられた。
(後略)

名塩雁皮紙のふるさと西宮市名塩地区

越前との技術交流、蓮如の布教活動と真宗(浄土真宗本願寺派)教行きょうぎょう寺の存在など興味深い記述がみえます。

雁皮紙のなかで上質のものは、その色合いから鳥子紙とりのこがみともよばれました。そこで、ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択、「雁皮紙」と「鳥子紙」の2つのキーワードを入力、検索範囲を「全文」として「OR検索」をかけますと、20件がヒットします。

地方別では中部地方以西で万遍なくヒットしており、また、スニペットを眺めると、名塩村以外では加賀国能美のみ郡、越前国今立いまだて郡、因幡国気多けた郡などで製造が盛んであったことがうかがえます。名塩の雁皮紙は丈夫で、色褪せが少なく、虫も付きにくい、といった特徴を備えており、現在では文化財の修復に欠かせない貴重な紙となっています。

次は「土佐典具帖紙」。「日本歴史地名大系」で「土佐典具帖紙」と入力して全文検索をかけますと、高知県吾川あがわ伊野いの町(現いの町)の【こうたに村】の項目1件のみがヒット。やはり、この地が国指定重要無形文化財「土佐典具帖紙」のふるさとです。「国指定文化財等データベース」には次のようにあります。

土佐典具帖紙は、きわめて薄く、かつ強靱な楮【こうぞ】和紙の製作技術である。中世に美濃国で漉【す】かれていた典具帖(天宮上、天狗状、天郡上等とも記す)の技術が、明治初期に高知県に導入されて発達した。土佐典具帖紙は、タイプライター原紙として大量に輸出されるほど発展し、比類のない極薄紙として知られるようになるが、……
(中略)
伝統的な土佐典具帖紙の製作には、高知県仁淀川【によどがわ】流域で生産される良質の楮を原料とし、消石灰で煮熟【しゃじゅく】した後、きわめて入念な除塵(ちりとり)や小振【こぶり】洗浄を行い、不純物を除去して用いる。トロロアオイのネリを十分にきかせた流漉【ながしずき】で、……
(中略)
漉き上がった紙は「カゲロウの羽」と称されるほど薄く、繊維が均一に絡み合って美しく、かつ強靱である。
  (後略)

土佐典具帖紙の産地、高知県いの町神谷こうのたに地区

元来は美濃国で漉かれていたのが、明治時代に土佐国(高知県)に技術が伝わり、現在では「いの町」で漉かれる典具帖紙が最上質とされています。「日本歴史地名大系」の【神ノ谷村】の項目を読みますと、同所はすでに江戸時代に紙漉が盛んで、技術移入の土壌は整っていたようです。

「土佐典具帖紙」は薄さと丈夫さが特徴。今でこそタイプライター原紙としての需要はありませんが、「いの町」で漉く和紙製品のなかには、他の和紙産地ではあまりみられない、ティッシュペ-パーやトイレットペーパーまであります。

ところで、「典具帖」とはあまり聞きなれない言葉です。先掲データベースでは、「天宮上、天狗状、天郡上等とも記す」とみえ、ほかに「天具帖」「天久常」の表記もあります。そこで、「日本歴史地名大系」で「典具帖」「天具帖」「天狗状」の3つのキーワードを入力、検索範囲を「全文」として「OR検索」をかけますと、9件がヒットしました。1件は先述の【神ノ谷村】の項目で、また3件は「回状」の意味合いをもつ「天狗状」がヒットしました。残る5件が手漉き和紙としての「典具帖」「天具帖」「天狗状」で、岐阜県の美濃国の国項目が1件、ほかは岐阜県山県やまがた美山みやま町(現山県市)・土岐市・恵那市の各村項目がヒットしました。

「天郡上」の表記から、美濃国郡上ぐじょう郡で漉かれた極上(「天」の印)の紙の意である、という名称由来もあります(大田南畝蜀山人が言い出しっぺ、といいます)。しかし、少なくとも、「日本歴史地名大系」の検索結果からは、郡上郡内での生産は確認できません。

「日本歴史地名大系」の【美濃国】の項目では、中世の〔産業と交易〕の小見出しで、

古代の美濃紙の生産場所は、国衙が管理する工房「紙屋」であり、このことから国府のあった不破郡または揖斐いび川流域が想定されているが、確定できない。中世後期にはその生産地は東部・北部山間部に広がった。その生産地が山県郡の森下もりした(現美山町中洞)と推定される森下紙、東濃の薄紙・白河のほか、薄白・天久常(典具帖)など多種の紙が生産され、美濃の代表的名産品として中央貴族などに珍重された。

とみえ、近世の〔商品生産〕の小見出しでは、

武儀郡の板取川流域のまき谷筋と武芸川流域の武芸谷筋で、そのほか池田・本巣・大野・山県・恵那・加茂・可児・土岐・郡上の各郡などでも生産された。一八世紀以降中心は武芸谷から牧谷筋に移るとともに、紙漉村が増加し専業化した村も現れ、牧谷は直紙・典具帖紙、武芸谷は尺長紙・森下紙・扇地紙といった種類別の集中化傾向もみられ、紙漉と楮栽培の分化も進んだ。

とみえます。美濃国の紙製造は武儀むぎ郡域の板取いたどり川流域、武儀川流域(武芸川むげがわ谷)が最も盛んであったことがうかがえ、郡上郡での紙生産は確認できますが、「典具帖」の特産地であったことは確認できませんでした。

また、「日本歴史地名大系」の【郡上郡】の項目でも手漉和紙への言及はありません。博学多才の人、蜀山人先生の御高説ではありますが、「典具帖(天郡上)は郡上郡に由来」との説に、筆者は賛同できません。現在のところ「典具帖」の名称起源は不明、といったところでしょうか。

次回は「和紙の里めぐり」の最終回、「杉原紙」の周辺を探ります。

(この稿続く)