岡山県の中西部にある
吹屋地区は
江戸時代にベンガラの生産が盛行した経緯については、次のような記述がみえます。
坂本村の
高梁市の成羽町吹屋地区は吉備高原の山中に集落が形成されている。
また、吹屋地内の「吉岡銅山」については次のように記します(項目名は【吉岡銅山跡】)。
吉岡銅山には9世紀開坑の伝承があり、戦国期には尼子氏や毛利氏も経営に携わっていたようです。【吹屋村】の項目には地名由来の具体的な記述はありませんが、「御田畑者銅焼候而悪所多ク」などとみえますから、銅の精錬関連施設があったと考えても、そんなに外れてはいないと思います。ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」は【
(1) 金属を精錬したり鋳造したりする工場。また、その職人。
(2) 大言をはく人。口から出まかせをいう人。
高梁市の「吹屋」はもちろん(1)ですが、「金属を精錬したり鋳造したりする工場。また、その職人」に由来する「吹屋」地名は大字・町名レベルでどのくらい存在するのでしょうか? ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択、「吹屋」と入力して見出し検索(部分一致)をかけてみました。 結果は11件がヒット。うち、高梁市の【吹屋村】項目と関連する【吹屋往来】を除いた9項目を北から順にあげますと、
山形県米沢市の【吹屋敷村】
福島県耶麻郡高郷村(現喜多方市)の【吹屋村】
群馬県北群馬郡子持村(現渋川市)の【吹屋村】と【吹屋古墳群】
石川県金沢市金沢城下の【吹屋町】と【浅野吹屋町】
和歌山県和歌山市和歌山城下の【吹屋町】
岡山県津山市津山城下の【吹屋町】
広島県高田郡高宮町(現安芸高田市)の【吹屋城跡】
となりました。金沢城下の【吹屋町】と【浅野吹屋町】、津山城下の【吹屋町】については、鋳物師に関連した町名との記述がみえます。和歌山城下の【吹屋町】は「和歌山市史」によれば、「同職集住」の町人町といいますから、これも鋳物師に関連した町名といえるでしょう。また、広島県高宮町の【吹屋城跡】は城郭の項目ですが、城跡のある川根地区(項目名は【川根村】)について「この地方は砂鉄の産地で鑪が盛んであったと伝え、その遺跡も残る」との記述がみえ、地内に
群馬県子持村の【吹屋村】(【吹屋古墳群】は関連項目)も「日本歴史地名大系」では鋳物師に関連した地名と推測しています。同所は、関東管領上杉氏の有力被官長尾氏(白井長尾氏)が拠った白井城の城下の一端を担い、「中世、白井に城が置かれていた時代、当村域の町並は松原屋敷・吹屋屋敷とよばれ、(中略)白井城の北の遠構の役を果した」と記されます。江戸時代には鋳物師の活動が確認でき、鍋屋・釜屋といった屋号も残っています。
米沢市の「吹屋敷村」の読みは「ブキヤシキムラ」と濁りますが、ここの地名由来も「吹屋」の語釈(1)の可能性が高いと考えられます。同所は近世の米沢城下の西端部に接していて、城下から外れていますが、戦国期には伊達輝宗(伊達政宗の父)の隠居城とされる
館山城は最上川の上流部、
館山城(この画面では見えない)の城下であった米沢市の吹屋敷地区。
ここまで、「吹屋」地名の立地をみてきましたが、近世の城下町や中世・戦国期の城下に多くみられることが判明したと思います。「信玄の隠し金山」などと巷間いわれるように、中世以降、在地の有力大名は領内の鉱山開発に力を注ぎ、城下にはその精錬(製鉄・鍛冶)施設を設けました。こうした手法は近世大名にも継承され、それが「吹屋」地名の立地に反映されたのだと筆者は考えます。
高梁市の「成羽町吹屋」は城下ではありませんが、「中国地方最大規模」を誇った吉岡銅山の付帯施設ですから、鉱石の運搬などを考慮して鉱山の近くに精錬所を置いたのではないでしょうか。吉岡銅山は尼子氏・毛利氏・備中国奉行小堀氏・成羽藩山崎氏の支配を経て幕府直轄となっており、いかに重要視されたかがうかがえます。
ところで、ヒットした「吹屋」地名で、これまで福島県高郷村(現喜多方市)の「吹屋村」には言及しませんでした。じつは、同所の近辺に鉱山や有力な中世城館跡はなく、もちろん近世の城下町でもありません。そうしますと、高郷村「吹屋」の地名由来は「吹屋」の語釈 (2) の「大言をはく人。口から出まかせをいう人」が多く住んでいたため、ということになるのでしょうか?
旧高郷村吹屋地区(現喜多方市高郷町上郷地区)の方々の名誉のためにいいますが、もちろん、そんなことはありません。そこで、高郷村の【吹屋村】項目にみえる次の記述に注目します。
南東部には天文年中(一五三二―五五)頃田代丹波が住したという
これまでの検証から推測すると、弱小の在地領主である田代丹波が開発した鉱山の関連施設が地内にあった可能性もあるでしょう。あるいは、田代丹波によって鋳物師・鍛冶屋が置かれていたのかもしれません。いずれにせよ、精錬や鋳造にかかわる何らかの施設が地内に存在していたことが、地名の由来になったのではないかと筆者は推測します。
(この稿終わり)