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第27回 大崎(おおさき)八幡宮と亀岡(かめおか)八幡宮

2009年05月29日

杜の都と謳われる仙台は青葉あおば山に伊達政宗が築いた仙台城(青葉城ともいいます)の城下町。城下は仙台城の外堀の役割を果たした広瀬ひろせ川を挟んで城の対岸にあり、その町割は政宗みずからが設計したと伝えます。城の縄張りは慶長5年(1600)暮れに始まり、同7年に一応の完成をみました。町割は慶長6年1月から始まり、同15年頃には骨格が定まったとされ、以来、仙台の町は東北地方第一の都会として発展、今日を迎えました。

仙台城の北西方には、蛇行しながら流れ下る広瀬川を挟んで北岸(城下町の側)に大崎八幡宮、南岸(城郭の側)に亀岡八幡宮と、2つの八幡宮が対峙しています。八幡宮(八幡神社)は全国に4万社あるとされ、諸神社のなかで最も数の多い神社。4万社もあるのですから、川を挟んで向かい合わせに鎮座していても、とりわけ珍しいことではないのですが、大崎と亀岡の両八幡宮には少なからぬ因縁があるようなのです。今回はそのあたりをのぞいてみましょう。

大崎八幡宮は、江戸時代には仙台藩62万石の総鎮守と称された神社。例年8月15日から行われる祭礼の折に(現在は9月14・15日)、晴天10日宛ての角力、芝居、小見世物が許され、城下に住む人々にとっては数少ない娯楽の機会となっていました。本殿と拝殿を石の間でつなぐ権現造りの社殿は、桃山文化の秀でた遺構として国宝に指定されています(神社建築としては日本で最も北にある国宝建造物です)。慶長9年秋に着工され、同12年8月に落成したこの社殿は、京都豊国ほうこく廟の建築を模したと伝えられ、工人は豊臣家に縁の深い大工、鍛冶、画工たち。彼らは仙台城造営にも携わった職人でした。

ところで、大崎八幡宮は、延暦20年(801)坂上田村麻呂が奥州征討の際、陸奥国胆沢いさわ郡の地に勧請した八幡宮(現在の岩手県水沢市の鎮守府八幡宮)が始まりといいます。室町時代になると陸奥国大崎5郡(遠田・志田・玉造・加美・黒川の各郡)を領有した大崎氏(奥州管領として下向した足利一門の斯波家兼が祖)によって遠田とおだ郡に勧請・遷座され(現宮城県田尻町八幡の地)、大崎八幡となりました。天正18年(1590)大崎5郡が大崎氏の支配から伊達氏の支配に替わると、大崎八幡は引き続き伊達氏に尊崇され、伊達政宗が居城を玉造たまつくり岩出山いわでやま(現宮城県大崎市)から仙台に移した際、遠田郡八幡村から仙台城下に勧請・遷座したといいます。

なお、この時、伊達政宗とともに出羽国置賜おきたま郡から岩出山に移っていた成島なるしま八幡宮の別当寺であった龍宝りゆうほう寺の僧の進言によって、成島八幡宮の分霊も合祀したといいます。成島八幡宮は、鎌倉時代に置賜郡一帯を支配していた長井氏が奉祀していた神社。1480年代、長井氏を滅ぼして置賜郡に進出した伊達氏は、成島八幡を長井氏に変わらず厚く祀ったといいます。

つまり、大崎八幡宮は陸奥国中央部の鎮守社であった大崎八幡と、伊達氏の旧領置賜郡の鎮守社であった成島八幡をあわせ祀ることで、新しい伊達領62万石の鎮守社になったといえます。なお、かつて成島八幡の別当寺であった龍宝寺が、江戸時代を通じて仙台城下大崎八幡の別当寺を勤めました(以上、JK版「日本歴史地名大系」など)。

大崎八幡宮と龍宝寺

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いっぽう、亀岡八幡宮は伊達氏の氏神。奥州伊達氏の祖である伊達朝宗が、陸奥国伊達郡の地に鎌倉の鶴岡つるがおか八幡宮の分霊を勧請したことに始まるといいます。その後、伊達氏代々に尊崇され、伊達氏が伊達郡、出羽国置賜郡米沢、陸奥国仙台と本居地を移すに従い遷座したといいます。ただし、仙台藩祖政宗が仙台城のそばに社殿を建立しましたが、2代藩主忠宗は城下中心部の同心町に移させ、4代藩主綱村の時代の天和3年(1683)に現在地に移ったといいます。

伊達氏の奥州最初の居所については諸説ありますが、奥州合戦の恩賞として伊達郡を与えられた伊達朝宗が、旧領常陸国伊佐いさ庄(現茨城県筑西市)から移ったのは、伊達郡高子岡たかこがおか(現在の福島県伊達市の高子岡)の地といいます。現在、同所にある八幡神社は、朝宗が鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を勧請して創建した亀岡かめがおか八幡宮の後身といいます(JK版「日本歴史地名大系」福島県伊達郡保原町《高子村》の項など)。なお、亀岡の読みは、伊達氏旧領の伊達郡域では「かめがおか」、新領の仙台では「かめおか」といっていたようです。

その後、11代持宗の時代の応永年中(1394-1428)、伊達氏は本拠を現在の伊達市梁川町鶴ヶ岡やながわまちつるがおかの梁川城に移します。あわせて、城の北約1キロの地に、八幡宮を造営したといいます。天文元年(1532) 14代稙宗は梁川から桑折西山こおりにしやま城(現福島県桑折町)に居城を移し、八幡宮も西山に遷座しました。天文17、18年頃、父伊達稙宗との争い(伊達氏天文の乱)に勝利した15代晴宗は、本拠地を西山から板谷いたや峠を越えた出羽米沢に移します。しかし、『伊達治家記録』の元亀2年(1571)11月6日条には、亀岡かめがおか八幡宮を西山から梁川に返し移したとの記述がみえますから、亀岡八幡宮は米沢には移らなかったことになります。この梁川に移し返された八幡宮が、現在の伊達市梁川町八幡の梁川八幡宮です。

ところで、この梁川八幡宮に北接して旧別当寺の龍宝寺があります。梁川八幡宮は元亀2年に移し返したとされますから、この頃には龍宝寺は梁川に所在したと思われます。しかし、じつは成島八幡神社に残される棟札のうち、文明10年(1478)以降のものには社務龍宝寺との記載がみえ、また、政宗が仙台に入る前の10年間本拠地とした岩出山には龍宝寺の旧境内地と伝える場所もあります。

伊達氏の出羽国置賜郡進出の時期については諸説ありますが、晴宗が本拠を米沢に移す以前、すでに伊達氏の領国経営の中心は置賜郡にあったともいわれます。伊達氏の氏神亀岡八幡宮の別当寺であった龍宝寺の動きは、こういった点からも興味深いものがあります。同寺は、ある時期2流にわかれ、一つはそのまま氏神の八幡宮の別当寺を勤め、もう一つは鎮守成島八幡の別当寺となって米沢に移り、さらに岩出山を経て仙台に入り、仙台藩領の鎮守大崎八幡の別当寺になったと考えられます。そして、その後、かつて別当を勤めていた氏神亀岡八幡宮の分霊が勧請され、大崎八幡宮の向かいに移って再会したことになるのでしょうか。

梁川八幡宮と龍宝寺

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